鯖(さば)がうまいのは秋が定番だが、いやいやどうして寒の鯖もうまい。

 

寒い冬。寒のつく魚で真っ先に思いつくのは鰤(ぶり)。「氷見の寒鰤です」、なんて、ちょっと気の利いた料理屋に行けば一言つけて出してくれる。寒鰤寒鯔寒鰈(かんぶりかんぼらかんがれい)という慣用句もある。今は昔の言葉かもしれない。さしずめ今なら寒鰤、寒河豚(ふぐ)、寒鮟鱇(あんこう)か。鱈(たら)も忘れちゃいけない。魚へんに雪だもんな。鰆(さわら)も冬がうまい。魚に春だが冬がうまい。

 

寒の味覚三役、どうするか。この話題で一杯やれそうである。

 

先日都内できき酒会をした。人形町の呉服屋の座敷。着物姿もちらほら見える。この日は7種類の酒に7種類の料理を合わせるという趣向だった。7つの酒肴相まって大虎となる、わけでもないが、酒が入って老若男女、実にいい顔をしていた。

 

料理の一つに、鯖の照り煮を出した。脂ののった寒の鯖を大根と一緒に煮る。煮汁はしっかり詰めてこってりと。弱火でコトコト中まで味を染み込ませるというより、強火でガッと火を入れて外側に煮汁をまとわせるイメージ。仕上げに粉山椒をパラパラ。

 

きき酒は酒が主役だからそれに合わせた料理である。酒は広島の竹鶴。純米である。

 

この酒は酸味が特徴の個性派。酒瓶には三位一体ならぬ、酸味一体と書いてある。わざわざ書いてあるのだからそこにこの酒の力点があるに違いない。まさかただのダジャレ好きな酒蔵、というわけでもなかろう。でも嫌いじゃないんだろうな。

 

見た目からして茶色い酒。香りは甘く香ばしい。紹興酒に近い。ヤクルトみたいな香りもする。乳酸菌が効いている感じだ。ひとまず飲んでみる。見た目と香りのインパクトからするときれいな酒質。甘味が少なく感じる。香りはすごい。飲んでますます紹興酒のようでもある。それにしても独特。

 

すべからく作り手というのは、どこかに着地点をイメージして作っているはず。ましてや酒瓶に「酸味一体」だと表明するくらいの酒。一体この酒、どこにたどり着こうとしてるのか。ひやでよくわからないから燗にしてみた。ひと肌。367℃。いまいち。ぬる燗。40℃。もうちょい。熱めにした方がよさそう。一回60℃まで温めて、それを50℃くらいまで冷ましてみたら飲みごろを発見。熱燗。50℃でようやく、着地。

 

酒は一回温度を上げて冷ますと丸くなる。角が取れる。甘味の少ない酒。ボリュームがありすぎてくどい酒にはいい。ただ酒自体に力がないとへたれる。しっかり時間をかけて発酵、熟成させて作り込んだ酒でないとダメ。

 

それにしても面白い酒である。一般に共通するおいしさ、わかりやすいウマサなんてこれっぽっちも求めていない。そこがいい。どんな人が作っているのか。会ってみたくなった。

 

それで、料理である。まずこういう酒は、甘辛な、複雑な味付けの肉料理と相性がいいことが多い。多い、というのは、合わせてみなけりゃわからないから。たとえば鶏の旨煮とか、酢豚とか、肉を醤油と砂糖の入った調味料で煮込んだものは合いそう。けれども今回は7種の料理のうち他の料理ですでに肉を使っていたため、ここでは肉を避けて魚を使いたい。

 

さてと考え、最初に考えたのは鰤大根。寒鰤大根。これをこってりめで煮たらどうかと。合うと思いますね。この酒には白身より、鰤や秋刀魚なんかの青魚の持つ複雑な旨みが合うと思った。

 

そんなとき、たまたま自分の晩酌、酒の肴用に買った特売の鯖を料理してみたら、いやいやそれが旨かった。鰤のあの大味なところもなく、臭みもない。しかも脂がのっている。見直しましたね、鯖を。

 

それでこの鯖を半身はしめて、半身は照り煮にした。しめ鯖もなかなか乙なもの。乙ではあってもこの酒には合わない。鯖が負ける。案外しめ鯖は、生酒、しぼりたて、あらばしりなんていうフレッシュ系と相性がいい。それで照り煮に合わせてみて、これがピタリときた、というわけ。

 

鯖を読む。という言葉がある。これは、冷蔵技術のない時代に鯖を早く売りさばこうと急いで数を数えるため数が合わないことが多い、というところからきたという慣用句。いい加減な数値、ということ。つまりそのくらいに痛みが早いのが鯖でもある。けれども現代の冷蔵管理技術をもってすればたとえ内陸部であってもこんなにおいしく、かつ特売で鯖を手に入れることができる。

 

リアルタイムが可能になってきているからこそわかる、寒鯖のおいしさ。あるいはそんなことが起こる一方で、季節感、生命感のない商品も多い。ともすれば旬と言うものを、もう一度捉え直して再考する時が来ているのではないか、、、なんてことは、言わない。言わないんだ。言わないが、それが楽しい作業だということは、言う。

 

おいしいものは生命感にあふれている。それが、旬、ということだろう。それを教科書通りじゃなく、自分の五感で感じとれた時はうれしいものだ。あらゆる食物の食べ時暦、旬の食カレンダーは、本来自分の五感を頼りに作るべきものだろう。

 

もはや、秋鯖は嫁に食わすな、なんという了見の狭いことを言っている場合ではない。鯖は寒が旨いのである。

 

そしてまた、一口飲んでうまくないと言ってほったらかされているどこかの酒も、燗が旨いのかもしれないのである。

風邪をひいて2日寝込んだ。

 

1日目は吐き気と頭痛で終わり。ベッドの上でただ苦痛が過ぎ去るのを待つだけ。こういうのは、いつかきっと過ぎ去る、と思えるから待てるが、永遠に続くのかもしれない、と思ってなお待てるのだろうか。

 

一晩苦しめば、どうにか翌晩はそれより楽になる。今回もそう。楽になって、さて何かをやる気にもならない。こういう時はとりあえず、テレビをつける。

 

テレビをつけたらトキオが、アイドルグループの彼らが、鯛と平目の食べ比べをしていた。自分が食べたのが鯛なのか平目なのかを当てる。アイドルグループと言ってもそう若くはない。散々うまいもの食ってきたんじゃないのかと思いつつ、当たらない。食べた魚の感想、コメントは合っている気がする。おそらく、鯛と平目の違いに興味がないのだろう。

 

この二つ、一言でいえば華やかさが違う。鯛が圧倒的に華やか。口に入れた時の香り、甘み、鯛は平目に比べて、いやおそらく白身魚の中で最も華のある魚かもしれない。ならば平目はダメなのか。そんなはずはない。だいいち華があればいいというものでもない。平目というのは繊細で、かつ、噛んでいると後追いでやってくる力のある味、地べたの味、これが平目の特徴かと思う。華やかさはポン酢で補えばいい。

 

鯛が生きているのは潮の流れの急な所。そういう中で揉まれてアグレッシブに一生を終えるのが鯛である。片や平目は海底でのんびりと、見たことはないがゆったりと、暮らしている。それが味にも出る。どっちがどうだと言われれば、それぞれだ。

 

鯛はそれ自体が華やかだから、食べ時を生で食べるならポン酢よりも醤油が合う。そう思う。今まで食べた中でうまかったのは、京都「瓢亭」の鯛、それから、赤坂「青柳」の鯛。あんなねっとりとした、でありながら品があり甘く、そんな鯛はなかなか食べられない。どちらも瀬戸内の鯛だろうが、素材はもとより、取った後の処理の仕方、つまり締め方、保存状態、包丁の入れ方、そして締めてからどのくらいの時間でお客に提供しているかが、理にかなっているのだろう。

 

動物は、生きたまま食べてもうまくはないのだという。死んで少したって、それでうまみ成分がじわじわ出てきたころがうまい。つまり死んで初めて食材となる、ということである。

 

死んでからある一定の時間がたつと、死後硬直が始まる。硬くなっていく。その死後硬直の間に微生物の酵素が働き、タンパク質が分解され、うまみ成分が出てくる。肉と魚では少し違うらしいがよくは知らない。いずれにせよ種別にみれば一般的に、鶏肉で半日~1日、豚肉で45日、牛肉で2週間くらい、それで鯛や平目はおよそ24時間、つまり丸一日たったころが最もおいしいらしい。

 

動物は、生きたまま食べてもうまくないのである。

 

生きているときはうまくなくて、死ぬと、うまくなるわけである。

 

生命を有機的につないでいくためにはそれが都合いいから、そうなるのか。うまくなれば誰かが食べる。そこからまた生命が始まる。断絶しない。死ぬ→うまくなる→食べてもらう→、というのはだから細胞の中に組み込まれていて、そういうわけで死ぬとうまくなるのだろうか。

 

死ぬ、というのは、自分でどうこうできる範囲を超えるということ。もはやそのとき、自分という基盤は放り出されている状態である。だから死んだあとうまくなったとしても、それは死んだ本人がうまくしているわけではない。もうその時その亡骸はその手から離れている。うまくしてくれるのは、その中に住んでいた微生物(他者)である。これは自己放棄である。いや、死のうと思って死ぬやつは少ないだろうから、消極的自己放棄、ということになるか。

 

つまり、消極的自己放棄の結果、うまくなる、のである。

 

こういうのは、生きている最中にも同じようなことが結構ある。たとえば、便秘で苦しんでいるときにウンコを出したいとする。出したいんだからとにかく詰め込めば後ろから押されて前のやつは出てくるだろうと、普通は考える。ところが食ったって苦しくなるだけで出て来やしない。むしろこういう時は食わないに限る。断食である。断食すると体が危機感を覚える。そうすると細胞がこれはたまらんといって動き出すのである。ここに本人の意思はない。細胞は確かに自分のものかもしれないが、動いてくれよと言ってちっとも動かないのがやつらでもある。要するに、己の意志でどうのというのではなく、それを放棄したときに、案外体はしぶとく蘇生するようにできているのである。

 

要するにこれは、自己放棄の結果、うまくいく、である。

 

しかしなかなかそううまくいくものでもない。早く仕事を終わらせなくちゃ、早くウンコを出さなくちゃ、早く病気を治さなくちゃ、こういう脅迫にも似た切迫感はそこら中にごろごろ転がっている。そんなときに自らを手放すのは難しい。けれども勇気を出してなのか、あるいはあきらめ半分でもかまいやしない、いったん手放してみると、案外体はしぶとくて、また動き始められるようにしてくれたりするのである。

 

ベッドの上で横たわり、まったく動く気のなさそうな自分の細胞に己の希望を丸投げして、じっと待っている。そんな時間は長い。けれどもそうやって待っていると、動いてくる。それが案外、以前よりも活発だったりする。

 

鯛の話はどこへ行ったのか?病み上がりはこんなもんだ。

甘酒

 

東京ビッグサイトというお台場の巨大展示場で行われた「スーパーマーケットトレードショー」に行ってきた。

 

これは言ってみればスーパーマーケットの見本市で、食材や加工品はもちろん、情報、サービスから店舗設備まで、スーパーマーケットに関するあらゆる最先端が一堂に会する展示商談会である。

 

この頃弁当開発の仕事を依頼されることが多かったから、弁当箱や弁当の中身でいいのはないかと行ってきた。

 

これと同じような食品見本市に「ギフトショー」というのがあるが、このスーパーほにゃららが違うのは、スーパーという巨大市場で勝ち残るためのノウハウに関する、今どきならソリューションとでも言うのだろうか、そういうビジネス戦略色が前面に出ているブースが多くあった、ということ。

 

そういうブースは、食品ブースの人たちがはっぴ着てお祭りムードなのに比べて、みんなスーツ。黒づくめで、なにやら鬼気迫る感じ。なんだか緊張しましたね。隙あらばとびかかってきそうで。そんなはずはないんだけど。

 

いまだにスーパーは全国各地で次々にできていて、別に不自由してないんじゃないかってところにも次々。じゃあできた分だけ他がつぶれているかというとそうでもない。で、また作る。こんな状態は長くは続かないだろうなと思いつつも、案外続いている。だからスーパー側としたら必死だよ。一人でも多くお客を獲得せねばと。そうして気づいてみたら商品よりもやれ見せ方だのサービスだの、ソリューションだの、ってなるんだね。そういう分野が新たな経済としてお金を回す役目を果たし始めたってのはわかるけど、やっぱりまず商品なんだよね。

 

お客もお客で、商品が口に入る前に満足しちゃってるところもあるんじゃないだろうか。ああ、お買い得商品を買えた、とか、ポイントがたまってうれしい、とか。うれしいもん、そういうの。きっとその根底には、食品会社やスーパーという巨大なものに飲み込まれていれば安心、という無意識もあるんじゃないだろうか。

 

だいいち、他を知らないもんね。飲み込まれて安心しちゃってるから、知れないんだね。無化学肥料で育てられた旬の野菜のうまさ、とか。スーパーには置いてない地酒や地ビールのうまさ、とか。たまにスーパーを変えてみたりしても、大体同じなんだ。そうすると、どういうことが起こるかというと、同じようなスーパーばかりが増えて食卓には同じようなものが並んで、そりゃあ当然同じような人間が増える。いやほんとですよ。地方色とか郷土色とか、そういうのが大事だってやっている人もいる一方で、画一化や均一化も、巨大資本のバックアップを受けながらこれまで以上の速さで進んでいる気がする。どこか焦りすら感じる、というか。

 

地方の均一化は進んでいる、と言うと、それでも楽しくやれているからまあいいよ、ってつい言ってしまう人もいるだろうけど、それは、とりもなおさずあなたの無個性化が進んでる、ってことなんだよね。人間が個人でありながら社会的生き物である限り無個性化と個性化のベクトルは同時に存在するとしても、こと食べ物に関して、自分の細胞をダイレクトに作るものに関して個性化した部分を保っておかなかったら、後々悩むのは自分なんだ。自分が他者と同じような人間だって気づいちゃってから自分をどうやったら取り戻せるだろうか、とか、そういう悩みそのものが現代、と言ったっていいような状況なんだから。そんな自分がいて、なのにスーパーに通うことには依然として疑いを持たずにいて、みたいな。スーパーの中枢は黒づくめ、という現実を見てしまったら、見てはいけないものを見た気がして、なんだか怖くなりましたね。

 

そんなこと思いつつ、一方で、独自のうまいもの、面白いものを作ることが楽しい、という雰囲気があふれているブースもあって。あまりに広い会場は、行先を決めないと回りきれないほどだったけど、面白いものが目についたら立ち止まる。結果、一向に進まない。あっちに引っかかりこっちに引っかかりして、結局終了時間ギリギリまでいた。

 

8つあるゾーンの中で一番おもしろかったのが、「地方、地域産品ゾーン」。全国津々浦々の名産、珍品、新商品が、ズラリ。さて、片っ端から、食べていく。

 

国産の手作りアンチョビ、くさやチーズ、鯖の塩辛に鯖の魚醤、これ、全部うまかった。地ビールも生で飲めたり。ありがたい。デザート類は目もくれず、考えてみれば、つまみ、珍味ばかり食べている。口直しではないが、しそ茶、とうもろこしのひげ茶。これもうまかった。とにかく、全部じっくりまわろうと思ったらとても一日じゃ無理。

 

数をこなしたいと思ったので試食だけいただいて立ち去るのがほとんど。でも唯一話し込んだのが今回私に招待券を送ってくださった島根の井上醤油店の井上社長。この社長が面白い。

 

社長は醤油の塩分濃度の境界線、つまり何%の塩分濃度以上だとしょっぱく感じるかについて、「私は15%だと思うんですよ」と言う。そうしてできた醤油「井上こはく」はまろやかかつ香ばしく、力強い味わい。しかもこのしょうゆは淡口醤油。ふつう淡口醤油の塩分濃度は17~18%である。

 

淡口醤油は濃口醤油に比べて醤油の香りや味が淡白だから食材の味を引き立たせたいときに使うことが多い。きっとこの醤油なら、吸い物やサラダなど、鰹だしや野菜の持ち味をさらに引き出してくれる気がする。おいしい豆腐、なんかにもよさそうだ。

 

「この淡口醤油の原料に使っているのがこれ」と言って渡されたのが、「みげん」という商品名の甘酒。「しっかり酵素分解してある」と言う甘酒は色が濃く、「黄麹を使っているからだ」と説明された。味見すると、普通の甘酒よりはるかにキレが良く、しかも、酸っぱい。私の好きな甘酒に寺田本家という酒蔵の「マイグルト」という商品があるが、あれの2倍甘くして、3倍酸っぱくした感じ。

 

とにかく熱っぽく、ロジカルに語る社長。話を聞くだけで、ここの商品がまずいはずがないと思えてしまう。あるいはそんな風に思ってしまうのは、買い物に行っただけで満足してしまうスーパーの客と同じか。そんなの嫌だから、これらの商品がどんな料理に合うのか、確かめようと思う。

ぬか漬け(2回目)

ぬか床は、微生物の住みかである。実に発酵ぬか1g10億もの微生物がひしめいていると言われる。それでその10億の中で最大多数を占める微生物は、乳酸菌である。

 

ぬか床の乳酸菌は植物性。乳酸菌と言えばチーズやヨーグルトという動物性が馴染み、となったのは日本の歴史ではまだ最近のことで、代々乳酸菌と言えば漬物、つまりは植物性乳酸菌に分があった。

 

乳酸菌はぬかを養分としてエネルギーを生産して、増殖する。その副産物がぬか床特有のうま味であり、いろんな栄養素である。そしてこの一連のプロセスのことを、発酵と呼ぶ。

 

ぬか床の中の微生物は、乳酸菌ばかりではない。中には腐敗を促す微生物もいる。つまりぬか床内には、善玉もいれば悪玉もいるわけである。あるいは中には、日和見菌というどっちつかずな菌もいるのだとか。日和見菌とはもちろん通称だが、これは環境によって作用の仕方を変える、そういう菌のことである。なんだか人間と似ているんだが、とどのつまり、生物はその大小に関わらず日和見的性質を備えている、と考えるのが自然な気がしている。

 

話が逸れた。

 

要するに、ぬか床は時々刻々と変化する。

 

ぬか床内の微生物は普段、微生物同士集まって棲息している。この集合体のことを菌叢(きんそう)と呼ぶ。菌叢の叢は、クサムラとも読む。地域社会みたいなものか。この微生物のクサムラがしっかり機能しないと、ぬか床はすぐにバランスを崩す。

 

ぬか床をかき混ぜていると、ぬか床内部で場所により味や発酵度合いが違うのがよくわかる。酸っぱいところやうま味の強いところ、なかには腐っているのか?、という部分もあったり。

 

つまりぬか床は、一時たりとも同じ状態ということはない。

 

あるとすれば、変化を前提とした、一時安定している状態があるだけである。

 

この頃はぬか床内の乳酸菌の中で安定的に活動する種類の乳酸菌も見つかっているらしいが、その乳酸菌を常態的に優位にさせておくのは難しい。なにせ10億もいるんだから。ただ、その安定のために人間ができることはある。それが、ぬか床をかき混ぜる、という単純作業である。

 

悪玉菌はおおむね、空気を好む。だから絶えずかき混ぜてやることが腐敗を防ぐことに繋がる。人間にできるのは、そのくらいだ。それでも腐るときは腐る。けれどもその、腐るときは腐る、ということも踏まえた上でかき混ぜる、というのもきっと大事で、もしかしたら、腐らせてたまるかというその一念が、ぬか床を腐りにくくもするんじゃないかと、思っていたりする。

 

乳酸菌をふんだんに蓄えたぬか漬けは、体にいいと言われる。その活躍の場は腸。腸は酸性で活動的になるから、だから酸性の乳酸菌がいいわけである。そして乳酸菌は腸内でも、消化と代謝という人間の体内二大事業に関わって、そのためのエネルギーを作り出す。まさにぬか床内で起きていたことをもう一度、しかもダイナミックに、腸内で再演するわけである。

 

分解して、発酵して、エネルギーを作り出して、そうして人間を生かした乳酸菌は、命を終える。乳酸菌にエネルギー生産を担ってもらった人間は、それにより動けるようになるわけである。

 

というわけで、そういうわけ。

 

まったくノリの悪い文章だが、そういうこと。これにておしまい、でもいいが、個人的興味は動けるようになった人間のその後、にあったりして。つまりはそうやって動けるようになったそやつは、善玉菌なのか悪玉菌なのか、あるいは日和見菌なのか、という話。人間を菌に見立ててみたらどうか、という。

 

それはおそらく、やっぱり、善玉のときもあれば悪玉のときもあって、実に日和見的なもんなのだろう。

 

そう考えるのが自然である。

 

要するにこの、まずはひとまず生物としての日和見的性質を受け入れる、というところからしか万事始まらないと、結局また、話は逸れる。いや、逸れちゃいない。それが言いたいことなんだから。

 

確固としたものしか信じられなくなったら窮屈でしょ。

 

ぬか床も己のパーソナリティーも揺れ動くんだから。

 

リアルカンパーニュ

あいかわらずよく酒を飲む。酒を飲むために生きてるのかと言えばそんなことはわからないが、なんてことはない「おいしく酒を飲みたい」というところで普段の生活の逆算が始まるんだから、これは酒を飲むために生きているということなんでしょう。

 

酒を飲めば喰い意地が張る。ひとしきり酒が終わるまで、一体次は何が飲みたいか、と、だったらそれに合わせて何を食べたいか、を、交互に、かつ、まじめに考えている。まちなかで酔っ払って、体の中からあぶり出される食欲と向き合いながらウロウロすることしばしば。側から見れば、きっとアブナイやつだろう。

 

そんなことより、食事のときに、これは酒を飲まない食事のときに、なにが主食かという話です。私の場合はほとんどが米。それでその米は白米ではなく玄米のことが多い。つまりは玄米党、である。

 

昔からそうだったわけでなく、子供時分の食卓にはパンはあったし、ご飯といえば白い飯だった。7,8年前に、ご飯を玄米にしてみたら体調がよかった。ならばおいしく食べたい、というので炊き方や米の種類を工夫してみると、これが実においしいことがわかって、結果、玄米が白米を押しのけてしまった。

 

とうわけで何が言いたいのかというと、今日もおいしく酒が飲めるのはこの玄米のおかげ、という、あらためて玄米のすごさと酒のありがたさを噛み締めつつ日々を送っている私の、今日は、パンの話です。

 

ややこしいな。

 

要するに、私はパンにはうとい、ということが言いたかったわけです。

 

ベーグル、というパンをはじめて食べたのは最近。半年ほど前、高崎の地産地消の八百屋兼飲食店(「すもの食堂」と言う)で、「これ食べてみて」と出されて食べたのが初め。知ったところのパンに比べればそれはもう歴然とした違いの歯応えの塊で、一番驚いたのは噛むほどに小麦粉の味がじんわり沁み出してくること。そうやってあらためて、パンは小麦なんだってことに気づいたはいいが、それ以来、小麦の味がしないパンがいかに多いかがわかってしまって、これはうどんもしかり、なんだが、そうして小麦の味のしないパンがパンだと思えなくなってしまった。

 

パンがパンでなくなってパンになる、という、要するにパンとの親身な関係が始まるというのは、こういうことなのでしょう。

 

関係が始まる。小麦粉の味がしないのは嫌、となる。だったらパンなど喰うな、とでも言われているような、趨勢。肩を落としかける我食いしん坊ナリ。時に出会ったイカしたパン。その名はカンパーニュ。

 

カンパーニュ。よくわからないがそういうパンがある。

 

フランスパンの一種で、田舎のパン、という意味だとのこと。お惣菜、が、家庭料理のおかず、というのと一緒である。カンパーニュは、やはり硬い。小麦の味のするパンは押しなべて硬いのだろうか。

 

このパンの持ち味は、その力強い酸味。そんなことを知り、こうしてまた、パンとは発酵食品であった、という当たり前のことに気づかされる。パンがパンでなくなってパンとなる。これもちょっとした、ルネサンスかもしれない。

 

カンパーニュの酸味は言うなれば、小麦の味の向こう側。それを知って嬉しいのかもしれないが、これはパンにおける前提条件とはならない。たとえば米の味がするのが日本酒の前提条件だとしても、熟成老ね香の山廃仕込みでなくとも日本酒は日本酒だ。

 

そう考えると、カンパーニュは、パンという食べ物を分け入った先にある、なんだか奥深いもの、のような気もしてくる。

 

カンパーニュというパンは、田舎のパン、でしかないのだが、その中には、地元で取れた粉でこねたパン、という意味も含まれているらしい。ところがこの田舎パンが流行りだすと、地粉でないのにカンパーニュとして売る輩も出てきているとか。それを憂えたフランスの田舎のお母さんたちが、かどうかは知らないが、リアルカンパーニュ、という言葉を作り出した。

 

こっちが本物のカンパーニュだよ、という意味である。

 

これは、カンパーニュをファッションではなく生活の一部として、「カンパーニュという切実」を生きている人間の、抗議である。あるいは、「そんな風にカンパーニュを扱わないでおくれ」という願いかもしれない。

 

パンがパンでなくなってパンになる。

 

このごろ、ナンデモアリは飽きてきた。そろそろ、リアル党でいきたい。

焼きおにぎり

夏の四国に行ってきた。

愛媛である。

 

そもそも四国に入ること自体が初めてで、いわんや愛媛県について知っていることと言えばせいぜいがあの道後温泉、程度。博識ならぬ薄識もいいところ。道後温泉など、これは山奥の鄙びた温泉街をイメージしていたらさにあらず。松山市という県庁所在地の街外れ、言わば街に直結した温泉街、であった。

 

元来が街並み好きなので、そういうものの出てくる書物を引っ張り出してきてはぼんやり眺めている、なんていうことがよくある。これは旅に出ずして旅をするという、創造的かつ高等な遊びなんだが、どうしたって想像なわけだから独りよがりになる。勝手な脚色はなはだしく、実際から遠ざかることしばしば。

 

街並みたちはおおむね、つまりは独断と好みと、それからディテールを描くことのできない無調法により、セピア色に彩られる。セピア色に彩る、というのもおかしな言い方だが、彩色しようとするとセピア色になってしまう、という、これも好みなんだろう。

 

ところがそうやっていざ現地に行ってみると、色に満ちている。実に明るい。当たり前だ。当たり前なんだが、そうやって色がつく、という経験が、実際に現地を訪れる、ということの醍醐味なのである。

 

良くも悪くもはっきりする。ときに膨らみすぎたイメージに追いつかない現実に出くわして、消沈することもある。逆に、想像をはるかに超えて、言葉にならないような景色に直面できることも、ある。

 

愛媛県は、北は瀬戸内海、西は豊後水道に面し、東西でおよそ240キロ、南北で2680キロということで、言わば横に細く長い地形である。

 

平坦な場所が少ない、というのが旅後の印象で、とくに豊後水道に突き出た佐田岬半島から南側、宇和海を囲む海岸線は、それはもう斜面が多い。陸に上がったらすぐ山、そんな感じ。

 

そしてこの斜面がどうも、気に入ってしまった。

 

おそらくそんなことは、だだっ広い関東平野で暮らしている極楽とんぼだから言える気まぐれに違いないが、けれどもだだっ広いから不安になる、ということだってあるわけである。

 

斜め、であることは、一方では生活に様々な制約を与えるものだが、一方ではだからこその独自の文化、地に足ついた地域社会を産み出す土壌にもなる。

 

段々畑やみかん畑は斜面を利用して広がり、斜面を降りたらあとは海。宇和海を囲む暮らしは、果樹と水産業なしには成り立たない。

 

そんな宇和海を望む漁師町で、旅の途中、漁業を営むご夫婦に歓待を受けた。

 

静かな内湾の船着き場に、20畳程のいかだが浮かべてある。いわばお座敷島である。その上にはテーブルと座布団。襖の代わりということか、いかだの回りは大漁旗で結界が敷かれていた。

 

夕暮れ時、薄暗がりに浮かぶ大漁旗のお座敷は、今まで経験したこともなく優雅で、でありながらまったくもって落ち着いた色調と、独特に荘厳な雰囲気だった。

 

現場に到着の後、いかだの上で釣りに興じた。いかだの下には魚がうじゃうじゃいるのだ。もちろんだからって、そう簡単に釣れるわけじゃない。そうしているうち座は整って、一同座布団に身を委ねての乾杯。

 

宴の、始まりである。

 

料理は、「さっき採ってきたばかり」と主がうるさい程に繰り返す宇和海の魚介珍味。これを炭火で焼いていく。主自ら片手にトング。寸分違わぬトングさばきで次々に目の前のテーブルを、宇和海の幸が埋めつくしていった。

 

穴子、岩がき、さざえに鯛に。それは、少々塩分過多ではあるが、明らかにその食材の持つ力と、主のトングさばきでぐいぐい引っ張っていく。あっけにとられながらもわれに返るのは、時折肌をかすめる穏やかな海風が吹いたとき。そして、自分が海の上に浮かんでいることを知り、また、あっけにとられる。

 

ここは地球の上、には違いないが、海なし県で生きてきた私には、海の上は地べたの外、なのである。

 

と、誰かが海に水をこぼした。

 

「あれ?今光ったよね」

 

「夜光虫がいますからね」

 

夜光虫というのはプランクトンのことで、目に見えないほどに微細な生き物だが、外部からの刺激に青く光って反応する。

 

「ちょっと海に出ますか?」

 

主人がそう言って、一同の返答を確かめる間もなく小型船のエンジンをかけ始める。クルージングにつれてってやる、というわけである。

 

断る理由はどこにもなく、われ先にと船に乗り込む海の素人たち。そして、出航。

 

船が、風を切って進む。そこに便乗している私たちも、風を切る。水しぶきを上げて、歓声が上がる。無数の夜光虫が、この世のものかと疑うほどに、妖艶な光を放っている。す、すごい。海風が全身を包んで、陸の風と違うその外の風に、現実が遠のいていく。

 

もはやこれは、ファンタジーである。

 

現実も想像も、生きてるのか死んでるのかさえもわからなくなる、というような、自分を持っていかれてしまう、というような、体験。これも醍醐味、とするならば、やはり旅に出るべきだと思った。

 

お座敷島に戻り、いまだ放心。まるで戻ってくる気配のない現実感にいたたまれず、なのかどうか、気づいたら海に飛び込んでいた。いい年をしてよくやる、なんていうことは思い浮かぶ間もなく。海水は目を覚ますにはぬるかったが、その分海から上がったときの風がさわやかに感じられた。

 

宴の後のテーブルの上、消えた炭火の脇に、食べ残された焼きおにぎりがあった。こんなときでも腹は減る。丸ごとほおばって、ようやく少し、我に返った。

 

知っている味がして、ほっとした。

おでん

大黒柱は要らないのだろうか、なんということを思ったのは、おでんを食べていたとき。

 

おでんとは、「おでんダネ」という複数の具材と、「おでんだし」と言われる、おでんダネをおいしく食べるための汁が相まって完成する料理であるのは、その通り。つみれ、はんぺん、ちくわに始まる魚のすり身の加工品や、あるいは大豆の加工品となれば、豆腐や厚揚げ、きんちゃくということになる。地域や店により、タネはいろいろに、変わる。

 

たとえば関東に住む私には馴染みのちくわぶ(うどん粉をかためたもの)も、そこを一歩出れば他地域にはないらしい。北に行けば、ツブ貝などの魚介類があったり、関西に行けばすじ(牛筋肉)が定番であったりもする。沖縄に行くと、豚足もおでんになってしまうとか。

 

ところでおでんにとって、メインのおでんダネはなんなのか。

 

通称「練り物」と言われる魚のすり身の加工品なんかは、その個性でおでん鍋の個性が決まる、と言っていいくらい、おでんにとっての生命線かもしれない。これか。でもそれに匹敵するくらいのうまいタネは、他にもある。

 

たとえばがんもどき。揚げてあることでだしに油が出やすいのでしっかりとした下処理が必要だが、もとは大豆だから、刻んで混ぜた野菜の味と渾然一体にだしの味を吸って、なんともうまくなる。

 

いやでもだったら豆腐か。あるいは「やき」と言えば、江戸っ子ならばこれで一杯やると相場は決まっている、焼き豆腐のこと。落語「替わり目」にも出てくるのはお馴染み。シンプルだから、江戸っ子が好みそうなおでんダネである。

 

こんにゃくはどうか。でもこれはどうなのか。もともとが固いから、口に入れてだしが順を追って口の中に出るんじゃなくて、あるところから一気に噴出する。これが知覚過敏にはきつい。だが温度が一段下がったところのこんにゃくは、それはもう格別に、うまい。

 

大根もまた、しかり。もちろんだしがうまくなきゃ、もちろんダメ。

 

卵。これは子供のころ、いつも取り合いになったっけ。あの固ゆでの黄身の、口の中の水分を持っていかれる感じはちょっと、という意見もあるか。でも卵、今でも取り合いになる。

 

さてこうやって並べ立ててみて、まあ要するに、よくわからない。どれも、もちろんここに出てこない多くのおでんダネを含めて、メインとかサブという括り方には向いていないのだろう。逆に言えばおでんは、すべてがメイン、という言い方だってできるのかもしれない。

 

なにも、ここでおでんの比較文化論にチャレンジしたいわけでも、各々の具材に対する思い入れを述べたいわけでもない。つまりはその、「すべてがメイン」というのは、なんかそういう傾向かもしれないと、そう思ったのである。

 

たとえば「ぶり大根」なんという料理であれば、これはメインはぶりである。あるいは「肉豆腐」であれば、肉が無くては始まらない。ところがおでんでは、大根や豆腐は主役級の扱いを受けることになる。

 

結局、食べる側にとってそのおでんダネがどう位置づけられているか、にすぎない。これはある面においてはとても自由な食べ物である。食べる側のその人その歴史によって、目の前のおでんはいかようにも変化してゆくのだから。

 

それでいておでんは、一個の料理として、つまりは一つ鍋ですべてが完結するという全体性も備えている。個々の持ち味を最大限に活かしながらも、全体性を保てるのはその懐の深さゆえ。さまざまな具材が、おでん鍋に放り込まれとたんに気持ちよさそうにしているなあと、思うのである。

 

大黒柱は要らないのだろうか。

 

そんなことを思ったのは、最近である。

 

「おでん燗酒、甘いと辛い」なんて言う様に、おでんと言えば甘い「味噌おでん」のことだった江戸時代も末期、醤油で煮る辛い「煮込みおでん」が始まった。そういう歴史、つまりは確実に世の中が家父長を基軸として動いていたときからの食べ物であるのに、どういうわけかそのおでん自体は、むしろ現代の、つまりは大黒柱という発想を持ち込みにくい状況に、酷似するのである。

 

大黒柱は要らないのか。いや、おでんにおいてはすべてが大黒柱、ということか。でもほんとにそうか。おでんとは個性の集合体ではあっても、父性の集合体ではない。はたしておでんに父性はあるのか。「おでんだし」が、父性なのか。いや、おでんだしは母性じゃないか。ならば父性は。

 

おそらく、おでんは社会ではあっても、家族ではないのかもしれない。そしてもしかしたら、家族はもうどこにもなくて、実はこれが、新しい、家族なのかもしれない。

 

おでんの難しさは、それぞれのタネがそれぞれに個性を出しすぎると味が詰まってしまう、つまりは味が混み合って取り留めのないものになってしまう、というところ。だからタネの一つ一つにしっかりとした下処理が必要になる。おでんが一つ鍋であるが故の、難しさである。

 

そしてこれこそが、おでんの面白さである。

えごま(じゅうねん)

RIMG1464.JPG

ご当地グルメはイカシテル、と思っているのはきっと私だけではないのではないか。先日福島県全域から集めたご当地食材8点を、出張マルシェで販売してきました。

 

扱ったものは以下の通り。

みそ豆、

根菜漬、

久留満麩、

えごま(じゅうねん)みそ、

凍み豆腐、

えごま、

南蛮味噌、

そばはっと。

 

これらを選ぶときの基準は、名前がイカシテルか、パッケージがイカシテルか、原材料がイカシテルか、だいたいこの3点です。

 

この3点が基準値を満たしているもの(私の勝手な基準値です)で今までまずかったものはあまりない。万が一これでまずかったとしても、この3点を満たしているということに満足してしまってる私の脳は、まずいという判断を、下しません。

 

いやほんとにそうなんだ。

 

そうやってうまい、まずいを判断することもできるんだと身に沁みてわかってきたのはつい最近ですけれども、文化ってそういうとこから生まれるものなんじゃないかと思っています。そうじゃなかったら、くさやとか鮒寿しなんてありえないと思うもんな。ああいうものがきちんと位置づけられている日本の食文化をイカシテルと思えるか思えないか、つまりそういうことなんじゃないかと思います。

 

そうやって食べ物に向き合うと、今度は食べることが楽しくなりますよ。常に主体的でいられますから。でも逆に、常に検証し続けなければいけませんから、大変といえば大変にもなりますけど。

 

口に入れてハイお終い、は楽なんですね。でも一方で、こいつはどういうプロセスで口の中に入ってきたのかってことに興味を持ちたがるのが人間でもあって、それでいったい今後これとどう付き合ってゆくか、を確かめるようとするから今を生きられている、というのも人間なんだって気がします。文化というのはその結果の、なにやらカタチとして残っていくもの、でしょう。

 

要するに、文化はいりますか?、いりませんか?、ということですかね。

 

それで、話は一気に飛ぶけれど、このごろどうも気になっていることについて。3.11の震災被災地の方の避難先への受け入れについて。

たとえば私の住む群馬県は今(20114月末現在で)県全体で3000人ちょっとの方をいろんな形で受け入れてますけれど、これが、受け入れてハイお終い、が多い。最近南相馬市から避難されている方と交流を持つ機会がありまして、どうしてもそう感じてしまいます。

 

主体的にふるまえる余地を多分に制限されている方々に、アナタたちはここで集団生活をどうぞ、とやる。表向きは自由に、となってますけれど、行政主導で動いてますから役所と役所のやりとりの中での自由、なんですね。

 

今まで役所間のやりとりとは縁遠かったのでよくわかりませんでしたが、役所と役所のやりとりの中での自由、って、ただの不自由、でしかないんですね。

 

きっと現場の担当者はそんなことはないと言うのかもしれませんが、いやいや私は文化がいるのかいらないのかの話をしてるんで。イカシテルかどうかの話なわけで。

 

地震が起きて困っているというから、受け入れた。その受け入れた、は、どういう受け入れた、なのか。そこに受け入れた側の主体性が少しでもあるならば、相手の主体性と向き合うのはこれ当然なんじゃないですかね。それとも受け入れた側に主体性なんてないのか。だったら受け入れちゃいかんがね。

 

主体的にふるまえる余地を多分に制限されている方々の主体性はどこにあるのか、ということなんですね。主体性はあるんですよ。どんなに制限されていようと。それは心の中ですよ。そこに向き合わなくちゃダメでしょが。まったくそういうスキルを、というか発想自体を持ち合わせていないんですね、行政は。

 

それじゃやっぱりダメなんでね、イカシテル人生を送りたい、と思っている人間にとっては。人生を文化そのものと捉えている人間にとっては。

 

受け入れてハイお終い、はぜんぜんイカシテナイのですね。

 

言っときますけどイカシテナイって、生かしてない、ですからね。

 

今回のひとしなはエッセイというより、叫びだな。

 

福島県でよく使われるご当地食材に「じゅうねん」という胡麻に似た食べ物があります。これは荏胡麻のことです。長野や岐阜、群馬でも山間地に行きますと今でもよく食べられています。

 

荏胡麻の面白いのは地域によって呼び名が違うこと。長野だとえぐさ、岐阜だとあぶらえ、群馬ではいぐさ(たたみに使うい草とは別物)と呼んでいるようです。

 

「じゅうねん」という呼び方は、これを食べると十年長生きする、と言い伝えられてきたから。直球勝負というか、なんのひねりもないというか、つまりどこがイカシテルんだって話ですが、少なくとも福島という土地の、その土地に住む人々の素朴さ、あったかさは生かしてるんじゃないですかね。

 

そう思ったら私の脳は、まずいという判断を下さない。

醤油

RIMG1436.JPGなんにつけ、比べてみないとわからない。

 

いま目の前に醤油が20本。この2週間くらいの間、暇さえあればなめている。なめてみて醤油のなんたるかがわかったかと言うと、そうでもない。でもそれなりに、面白いなと思うことはある。

 

たとえば、冷奴にどんな醤油が合うか?ということになると、今まで私は当たり前のように濃口醤油だろうと思っていたが、これが案外、薄口醤油が合う。冷奴は、兵庫の「末廣醤油の本造りうすくち」に止めを刺すようだ。

 

ただこの醤油が合うのは、薄口醤油だから、ということよりも、塩分の引きがいい、ということなのかもしれない。「末廣醤油の本造りうすくち」は、香りがどこか洋酒を思わせるように妖艶で、口に入れてやわらかい旨みが広がった後、すっとその塩分が消える。これが豆腐のような淡白な食べ物に合うのだろう。

 

同じく塩分の引きがいい醤油に、長野の「大久保醸造の本造り甘露醤油」がある。これは再仕込み醤油と言って濃口醤油を再度仕込んだ醤油で、本当に2倍旨いかも、と思わせるような濃厚さがある。それでいて、塩分の引きもいい。旨みの強い豆腐には、この醤油が合うと思う。

 

この引きのよさは醤油をダイレクトに飲んでみればわかるが、元来しょっぱいのが持ち味の醤油のくせに、気づいたら塩気がいなくなっているから、それはもう、ニクイ。盛り上げるだけ盛り上げといて、宴もたけなわになって気づいてみたらもういなかった、みたいな、こんなやつはもうほんとに、ニクイ。

 

いい醤油というのをあえて決めるんだとしたら、この塩分の引きのよさは大事かと思う。

 

今度は、焼いた餅には何か?となると、まったりと旨みの効いた醤油よりも、やや塩気が鋭角で香りの広がる濃口醤油のほうがマッチする。岩手の「佐々長醸造の生醤油蔵造り」などは好相性。

 

これは結局、でんぷんの旨みに合うのはどんな醤油か?ということであるように思う。味噌で考えてみると、同じなんだなって思う。

 

まず、ごはんと、味噌を2種類用意する。一方は甘みのあるまろやかな味噌、もう一方は塩気の効いた味噌。この2種類の味噌を使っておにぎりを握ると、まろやかな方より塩気の効いたほうの味噌が合うことに気づく。

 

でんぷん質には、ちょっと自己主張の強くて、華やかさも取り入れてるやつが合いそうである。

 

そうそう、このなめ比べをしていて、醤油には上がる醤油と下がる醤油があることに気がついた。日本酒にも上がる日本酒と下がる日本酒があるのだけれど、一緒である。上がったり下がったりするのは何かというと、簡単に言えば香り、で、あながち間違いではない。間違いではないが、どこか違う。意識、と言っていいと思うが、あるいは中心線、と言うか。それを口に入れる前と後とでは、その口に入れた人間の意識の中心線が上がるか、上がらないか。

 

説明能力の限界だな。

 

ともあれ、これは、あくまで口に入れる瞬間の最初のインパクトの話。口に入るか入らないかで、ふわっと気持ちを持っていこうとするやつと、すっと着地して居座っちゃうやつと、大雑把に分けて二通りある。

 

主に香りの個性や強弱でもその区別ができるかもしれないが、塩分もそれに大きくかかわる。塩分というのは基本的に引き締めるものだから、上がらない。だから塩分が効いていると下がると感じることが多くなるはず。いやいやそれはきっと逆で、口に入れて意識の中心線が上がらないと感じた醤油には塩分を強く感じる、と言ったほうが正しいかもしれない。

 

これ以上は無理。つまり百聞は一なめに如かず。実際になめてみてくだされ。

 

違いがよくわかるのは、群馬の「有田屋の丸大豆仕込み天然醸造しょうゆ」と、群馬の「岡直三郎商店の日本一しょうゆ一番しぼり」の、群馬なめ比べ。有田屋は上がる。直三郎は下がる。ちなみに今日ここで出てくる醤油は群馬県前橋市の職人醤油ですべてそろう。詳しくはコチラ→http://www.s-shoyu.com/

 

その上でまだまだ続く、上げ下げの話。

 

上がる、下がる、があれば、上がりもせず下がりもせず、という醤油だってある。つまりバランスがとれている、と言っていい。岩手の「八木澤商店の生揚げ醤油」、同じく「丸むらさき丸大豆しょうゆ」しかり、長野の「大久保醸造の本仕込み紫大尽」しかり。

 

これらは口に入るところから胃袋に収まるまでをそつなくこなす。つまり食品として、食べた者から違和感や不快感を引き出さないバランス、を持っている。おそらく醤油をなめてみてうまいと感じるのは、こういう醤油だろうと思う。

 

それで結局、醤油をなめまわして私は何がわかったのかと言うと、醤油をなめて私が感じてるのは、これを作っている人はどういう人か、ということなんだな、ということなんだな。この醤油は大人だねぇ、とか、こいつは繊細だな、とか、ちょっと垢抜けない、とか。案外醤油の味はどうでもいいんだな、うん。なんと言うかいつもどおり、不謹慎な結果である。

 

20本の中に、奈良の「片上醤油の青大豆醤油」というのがある。これは上がる醤油で、ちょっと普通じゃない。何が普通じゃないかと言うと、上がりっぱなしなのである。戻ってこない。ずっと上がっている。たとえてみれば、自分をもてあまして飲み屋に行ってみたはいいが、一向に満足できずに飲みすぎてしまって直地点を見失っている青年、みたいな醤油。

 

この醤油、なんとかしてやらなくちゃいけない。料理人として。

白菜漬け

RIMG1446.JPG「ジョウモウ大学」という試みが、高崎の若手事業家やデザイナー、遊び人たちを中心として、この夏に始まる。いわゆる市民大学というのと一緒で、キャンパスを持たず、時を変え場所を変えて学びの場を手作りしていく趣向である。

 

先日そこのプレ授業を任されて、「発酵」をテーマに講義をしてきた。

 

この授業が行われたのは2月。2月というのは畑にとってみると端境期で、冬野菜はそろそろ終わりだが春の野菜にはまだ早い。なので、自然と隣り合わせで暮らしている人にとっては、1年の中で最も保存食に頼る1ヶ月、ということになる。

 

以前に「おせち」の回にも書いたが、食べ物が腐る要因の多くは水気にある。水分の中に雑菌が増殖して、食べ物は腐る。だとすると日持ちをさせたければ水分を抜けばいい。そのために干すという知恵が生まれた。切り干し大根、ずいき(里芋の茎)、干し芋、干し柿など、冬場の農産物直売所には干した食材がよく並んでいる。

 

干すことが雑菌を増殖させない知恵だとしたら、あえて菌を増殖させて雑菌と戦わせる、という保存方法も一方にある。それが漬ける、という発酵の知恵。塩漬け、ぬか漬け、味噌漬け、麹漬けなど、これらはすべて発酵食品である。

 

発酵というのはそのメカニズムが腐敗ととてもよく似ている。では違いは何かというと、人間の体にとって有益だと発酵、有害だと腐敗、ということになる。実に人間的というか都合がいいというか、乱暴な決め方だなとは思うが。

 

でもそういう見方で発酵と腐敗を考えてみると面白いことがわかる。というのは、何が自分にとっての有益で何が自分にとっての有害かの境目は、すごくあいまいだからである。

 

たとえば牛のもも肉を買ってきて1%の塩をまぶし、冷蔵庫にほうっておく。赤かった肉の色は次第にくすんできて、赤い肉にしかおいしそうという反応を示さないようにインプットされている私たちにとっては、とても食べられるようには見えなくなる。でももしかしたら、これは単に、熟成が進んでいるだけかもしれないのである。

 

冷蔵庫にほうっておかれた牛肉は、次第に怪しげなにおいを放ち始める。これが発酵臭である。そのとき冷蔵庫の牛肉に何が起きているのかというと、低温熟成→低温発酵→腐敗、という変化。先ほど私が面白いと言った境目とは、低温発酵→腐敗の狭間のことになる。つまり、ある人にとっての腐敗はある人にとっての発酵になる、というのが面白い。

 

人間の体は、腐敗しているものを食べれば腹を下す、ようにできている。このことは、食べてみないとわからない、という自由を与えてくれる。そして食べてみて、ある人にとっては問題なく、どころか極めて豊潤にかぐわしい悦楽の食材として胃袋に納まる食材が、ある人にとってはただの不快感しか与えない代物、であったりする。

 

どこからが腐敗でどこまでが発酵かは人により違う、のである。

 

どうも今回の「ひとしな」は長くなりそうだ。大事なことを伝えたいときは長くなってしまう。いや、単に文字数で自分を落ち着かせようとしているだけか。なんだかよくわからないけど進める。

 

前出のプレ授業の話。この日取り上げた食材は白菜漬け。まず、漬けた期間の違う3種の白菜漬けの食べ比べをした。漬けて7日目と14日目と21日目のものを用意。白菜漬けの一般的な食べ頃は57日目のものとされることが多い。発酵の始まった酸味と共に、白菜の甘みが最も際立つのがこの時期の白菜漬けである。14日目、21日目となれば発酵は進み、乳酸菌の存在感が味にも反映されてくる。ヤクルトの味を思い浮かべていただくといい。21日目の白菜漬けの漬け汁をなめてみると、こりゃヤクルトだなって思う。

 

当日の参加者は30名程度。この3種を食べてもらってどれが一番好きかを司会者の方が聞いてくれた。予想に反して同割りの意見。面白かったのは、最も発酵の進んだ21日目の白菜漬けが好みと答えた方のほとんどが、酒を常飲していると答えたこと。

 

続いて食べてもらったのが、白菜漬けの鍋。白菜漬けと干したえのきだけを、豆乳で仕立てた昆布だしで食べていただいた。白菜は野菜の中でも旨み成分グルタミン酸の多い野菜で、漬けてますます旨くなる。一方えのきだけは干して水分が抜けると、旨み成分グアニル酸が10倍以上にも増えるのだとか。肉や魚の、ましてや人工の旨みは一つも入っていない鍋であるが、それでも十分に満足感のある料理ができるのである。

鍋のあとには、雑炊。玄米で雑炊。これもおいしい。さらにその雑炊にトスカーナのオリーブオイルをかけると、一段とテンションは上がる。こうやって畳み掛けるように白菜鍋に雑炊を食べてもらったのは、漬ける、干す、といった食材を日持ちさせるための知恵の中には、単純においしくなってしまうという利点があるということの、確認でもあった。

 

そうしてそうやって、授業もこのくらいまでくると、参加された皆さんは次は何が出てくるのかを待つようになる。私って悪いやつだ、と思いながらも、最後の一品として、白菜漬けのチョコレートフォンデュを出してみた。

 

食べ方はいたって簡単。白菜漬けにたっぷりのチョコレートを絡めて食べるだけ。口の中から聞こえてくるのはシャキシャキという白菜漬けの小気味いい音色。けれども味はチョコレート。想像していただけばまったくそのとおりのことが口の中で起きていることになる。おそらく試したことがないだろうから味の想像がつきにくいと思うが、白菜漬けとチョコレートは味の相性という点で違和感はない、というのが私の意見。

 

食べた皆さん、爆笑している方から嫌悪感が滲み出てしまっている人までさまざま。これでいい。だって私だって、こんなのを好きだなんて言ってほしくないという気持ちなんだから。でもありなんだな。ありだと思う人にとってはありなんだな。それは、「これは腐ってる!」と決め付けられた食べ物を「おいしい!」と感じることがある、というのと一緒なんだな。

 

結局何が言いたいのかというと、自分で考えて決める、というそのことなんで、それは自分を信用している、ということでもあって、たとえば賞味期限や消費期限なんというのは一つの情報としては役立つけれどそれに追従しちゃうのは自分を放棄することに他ならないんだ、ということなんだな。

 

今、世の中は未曾有の大地震で、地べた以上に我々が揺れている。この先も長い間、揺れ続けるだろう。さまざまな情報が飛び交う中で肝に銘じて、というより、それ以前に地震があろうがなかろうがそろそろ気がつかなくちゃいけないのは、情報はあくまでも情報で、それを自ら検証しようという能動的な姿勢を失ったら自分はいなくなっちゃうよ、ということだと思う。ほら、そこの納豆買い占めているあなた、あなた、とっても奴隷だよ、ということなんだと思う。

 

私を含めてあらゆる人が、そんな、奴隷という言葉みたいな耳障りのよくない言葉と、自分の行動のどちらが下品なのかを突きつけられているのである。

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