2009年9月アーカイブ

さんま

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 さんまの塩焼きの、おいしい作り方をひとつ。

 まず、さんまを洗ってすぐに水気をふき取ったら、まな板の上に頭を左にして置く。さんまの体の上下の境目、筋がすっと一本横に入っているところに沿って、中骨に届く寸前まで、包丁を入れる。裏返して、同じように一本包丁を入れる。こうすることで、骨に熱が伝わりやすくなり、生焼けがなく全体に火を通すことが出来る。あとは塩をきつめに振って、じっくりグリルで焼くだけである。

 朝晩がしのぎやすくなってくるのを実感する頃、スーパーの魚売り場に'今が旬'と書かれたさんまを見かけるようになると、もう夏も終わりなんだなあと思う。なんとなく寂しい気持ちは、秋の訪れと共に湧いて出てくる食欲に、容易にかき消されるのだが。

 今宵はさんまで一杯。想像しただけで、口の中が唾液で騒がしくなる。刺身もいいし、さつま揚げなんかもウマイ。しかしやはり、さんまは塩焼きに止めを刺すようだ。

 話は変わるが、落語に、「目黒のさんま」という一席がある。

 鷹狩りに出かけた目黒で食べたさんまを痛く気に入ってしまった殿様。その味が忘れられずにさんまを食べたくて仕方がない毎日。あるときおよばれで好きな料理を食べてよいと言われ、さんまを注文する。でもさんまなど庶民の食べ物だから用意していない。料理人は急いで魚河岸でさんまを求め、油を除き、隅々まで骨を抜いて椀に仕立ててお出しした。しかしこれでは殿様の知っているさんまとは似て非なるものである。あまりのちがいに殿様、「このさんま、どこで仕入れた?」「はっ、日本橋は魚河岸にございます」「それはいかん。さんまは目黒に限る」、という一席。

 ご存じ、世間知らずな殿様が主人公でおなじみの古典落語である。

 ところでこの話、「さんまは目黒」はそんなにおかしいか。

 「目黒のさんま」は、常識を知らない殿様を小莫迦にする話である。日本橋の魚河岸は江戸随一の新鮮な魚が集まるところ、という、そんな当たり前のことも知らないのかと、殿様は嘲笑の的になる。でも待てよ、と思う。もしかりに、殿様がそんなことわかっているとしたら。それでもなお、「さんまは目黒に限る」という話なんだとしたら。

 殿様という身分は、何から何まで周りがお膳立てしてくれる生活に違いない。がんじがらめのわずらわしさの中で、生活に嫌気がさしていないとも限らないだろう。そんな殿様が鷹狩りに出かける。これはおのれの実力で何とかしなければならない場面である。待ってましたとばかりに殿様は、自分が自由であることを実感するはずだ。そこで食べたさんまが、まずいわけがない。

 望んでもいない、飾り立てられた料理を食べさせられるより、自らつかんだ達成感の中でほおばる素朴な料理の方がうまいに決まっている。この話の中には、そういう殿様がいるということだって、ないわけではない。ただ単に、どうせならそんな話に仕立ててほしいという、私の願望かもしれないが。

 現実は、そういう冷やかしでしかない笑いって世の中に溢れていて、それはもしかしたらあなたの想像力のなさでしかないというようなことを、ためらいもなくしたり顔でせせら笑えてしまうのは、それこそ目くそ鼻くそを笑うというもんじゃないかと、だから「さんまは目黒」はそんなにおかしいか、ということにもなる。

 たかがさんまを、ぐっと自分に引き寄せた殿様が教えてくれるのは、人生の始め方である。一人の人間の始まってしまった人生は、常識なんて軽く超えてゆくのである。

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