2009年12月アーカイブ

日本酒

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 悲しくて滑稽な、男の性欲にまつわる話から。

 

司馬遼太郎の小説に「峠」という作品がある。「読んでみて」と言われて貸してもらった。人から薦められた本はおよそ最後まで読めたことがない。他にそれしか読まないという本があるわけでもないのに。 

 

ところがこの本は、最後まで熱中して読んだ。

 

主人公の河井継之助は幕末の長岡藩士。資本主義の足音が刻々と迫る時代に、自分にとっての正しさを愚直に追求する男である。きれいごとを嫌い、何がリアルなのかを考えつくす33才の所帯持ちは、悲しいかな、人一倍の好色だった。旅の道すがら、京での出来事。公家筋の年若い女に迫られる。「抱くが美か、抱かぬが美か、ということである。そのくせ継之助の股間は―尾篭(びろう)ながらむざんなほどに熱くなっている。継之助は本来、女は遊女のほかは抱かぬという信条をもっている」

 

江戸時代という時代は、幕府が公然と遊郭を認めていた時代である。時の男にとって女郎屋遊びは、それが善であるかどうかは別としても、今以上に悪ではなかったようだ。しかし今目の前にいる女は遊女ではない。継之助は心の中でつぶやく。

 

「地女(じおんな)はこまる」

 

地女とは、遊女に対する素人女、という意味らしい。

 

どうして唐突にこんな話を始めたのかというと、'地女'は'地酒'に通じる、というただそれだけの話をしたかったからである。

 

私はずっと、地酒というものがよくわからなかった。地酒が、その土地々々の個性を備えた日本酒、であることはわかる。けれども地酒ではない酒はどういう酒なのかと考え始めると、地酒がはっきりしなくなる。どれもみんな地酒に違いないから。ところが地女がわかると、地酒もわかる。

 

継之助はなぜ、地女に困ったのか。曰く、それに手をつければ「さまざまの厄介やさわぎがもちあがる」から、だと言う。「相手がほんものの遊女である場合、ふしどのなかの逸楽は情事の完結であり、あとはなにごともない。...しかしいまのばあい、この逸楽はむしろ情事や情念の出発になるであろう」と言う。つまり、そこに関係が始まってしまうかもしれない、という一点で、継之助は地女を避けようとする。

 

関係、というのは、いったん始まってしまったが最後、うわべだけでは済まされなくなることがある。ことさらに男女の関係は、そういうものだ。それを厄介とするのは当人の都合でしかないが、このことは酒にも通じる。酒もまた関係が始まると、厄介である。

 

酒は適量を過ぎれば、不快感となって後を引く。口に合う酒というのはその適量を超える可能性が高い酒ということであり、適量を超えたときに吐き気やむかつき、二日酔いという形で、その後の厄介は始まる。ならば地酒とは口に合う酒のことかというと、そうかもしれないが、それだけではない。大事なのは地酒が、関係の始まってしまいそうな酒である、ということである。

 

要するに、自分にとってのナニガシかである、という確固とした位置づけを持たされてしまうような酒のことを、地酒と呼ぶのであろう。通り過ぎてしまうことができずに、そこからのっぴきならぬ関係が始まるかもしれないという、地酒とはそういう特性を備えた酒ということになる。

 

床で継之助に迫った公家筋の女が言う。

 

「ご縁がございましたね」

 

始まってしまった関係は、まさに縁。酒もまたしかり。地酒とは本来的に、縁に向かう酒、のことである。それは当然、厄介やさわぎを想起させるだけのものではなく、安心の根拠や拠り所にだってなりもする。いずれにせよ縁とは、ズシリと重量感のあるものである。

 

地酒に限らず、地ナントカ、はいまやブームだ。しかしながらブームというのは都合のいいものだから、どこそこの地ナントカは、つまみ食いはされるが、当人の中で明確に位置づけられてしまうまでにはならない。そこに、'地'の字がつくのに縁に向かわない、というイレギュラーが生まれる。

 

つまみ食いは、おおむねラクチンで後腐れがないが、味気ないものでもある。縁は、およそ厄介でしちめんどくさいが、味なものにもなる。つまみ食い、という好都合と、厄介な関係が始まるかもしれない、という危うさとの狭間で、'地'の字だけが所在なげである。

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