2010年3月アーカイブ

あさり

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知り合いの着物屋さんからいただいた扇子がある。扇子に書かれているのは10編の都々逸。

 たった一度の注射が効いて焦がれ死にそな熱が出る
 筏乗り押せば行く行く押さねば行かぬ行くも行かぬも竿次第
 三味線の柄を握ってつくづく眺め紫檀じゃないかと拭いて見る

 都々逸はときに、卑猥だ。

 見立ても行き過ぎれば卑猥になる。三味線の~、のコレを目の前で謡われたら、私は卒倒するかもしれない。状況が手にとるように浮かんでしまって、直接的な表現より余計に卑猥である。この
都々逸、本当に女性が詠んだのか。だとしたらあっぱれだ。いや、恐るべしか。

 都々逸は江戸末期に寄席で生まれたもので、それが当時公営風俗であった吉原に取り込まれ、鍛えられた。色欲と金銭欲が縦横無尽に飛び交う場所で、欲望をギリギリのところで文化に昇華するという離れ業をやってのけた吉原。必要とされる場所を失った都々逸は、形式として今に残る。ただの卑猥、だけが印象として残ってしまうのは、都々逸が居場所を失って形骸化してしまったから。そういう理由もあるだろう。 

 卑猥を、下品でみだらなことなのだとすると、卑猥のワルモノ性は、人間というのは堕ちるときには簡単に堕ちてしまうんだからそんなのは好んでするもんじゃない、ということなのかもしれない。ならば卑猥を知らない上品にどれほどの意味があるのだろうか。よくわからない。


 ああそうか。よどみを排除して人間をたたえちゃいたいのか。そう
なんだきっと。

 古い体質って、そういうことのような気がする。たとえば「品格を重んじなさい」なんて言われたとしてそれがピンとこないのは、あたかも「そこには何のよどみもあっちゃいけない」というトーンでやるからなんだ。そういう体質こそがよどんでいる、ということだってあるのに。品格品格、と言う人ほど、実は人間の中にあるよどんだ部分に対して無策なのかもしれない。だから品格が、安っぽくなる。古い体質とは、そんなもんだ。

 よどみを毛嫌いする安っぽい品格、があるならば、上品を拾えない下品、というのだってちゃんとある。上品を拾えない下品、つまり、ただただ下品、これは悲しい。

 下品に意味があるとするならば、それも認めようよ、ということだけだから、上品だって知っていますよ、という姿勢は伝えなくちゃならない。ところが上品て、教養がないと拾えません。そこをおろそかにすると、行き着く先はただただ下品。たとえば、モノを知っている、というのも教養かもしれないけれど、それだけではあまり意味がなくて、知っているモノを他へと映しこんでいく、という、これつまり思いやりが、教養というものでもある。

 だから結局肝心は、「思いやりのある卑猥」なんじゃないかと。

 なんだかとんでもない話になってしまった。卑猥のあり方は、きわどい。

 ところで、
日本料理では、貝を女性の性器に見立てる。こちらはこちらでえげつないくらいの直接さだが、公然と今に残っている。

 ひな祭りの膳に、はまぐりやあさりなどの貝料理を供える習慣もその一つである。このえげつなさを卑猥だといって排除して、かわいいものだけをひと揃えにして桃の節句としてしまったら、ひな祭りは空々しく宙に浮いてしまう。貝料理には厳然と、女性の幸せへの願いが込められている。そういう内容を噛みしめてこそ女になれるというもんなんで、だからこそひな祭りには貝の料理があるのだと思う。

 かわいいだけじゃ、女になれない。

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