2010年5月アーカイブ

ほうれん草

RIMG0010.JPG あるイタリア料理店のシェフが、「野菜の料理は、いかにしてその水分を抜くかに尽きる」と言っていた。たとえば日本では、ほうれん草など青菜を湯がくときに歯ごたえを残して仕上げる。ところがイタリア料理では、ほうれん草はくたくたになるまで火を通すのが当たり前、なのだという。

 

 どうしてこうなるのか?そもそもの考え方が違うのだろう。

 

 野菜は肉や魚に比べて旨み成分が少ない。少なければ水分を抜いて旨み成分を凝縮すればいい。イタリア料理の考え方はそういうもので、それに対して日本料理はある一定のところで、おそらくイタリア料理よりは早い段階で、過熱、脱水を止める。それはよく言えばみずみずしさを保つ、となり、悪く言えば水っぽい、ということである。

 

 日本料理のやり方で野菜に水分を残すとして、そのままではおいしさのインパクトは弱い。だからその野菜の中の水分を今度はだしと入れかえたり、油でコーティングした植物性タンパクをまとわせたりするのが日本料理である。これが、お浸しとなり天ぷらとなる。

 

 この、「入れかえる」や「まとわせる」は、「水とだしを全部入れかえる」とか、「素材の中の水分には影響を与えずに外側にだけ油をまとわせる」ということではない。「水とだしが混然一体となる」ということであり、「衣を媒介として水と油が混然一体となる」ということである。つまり、あくまで「素材の持つ水分とだしや油の調和」に重きが置かれている。ここがまさに料理人の腕の見せどころで、その時々の素材の状態によって、一度たりとも同じということはない。

 

 ところで、さっきのイタリア料理で、野菜の水分をしっかり抜いたあとどうするか?きっとそこにまた水分を足したりするのがイタリア料理じゃないかと、イタリア料理をまったく知らない私は思う。

 

水分を抜いた食材は旨みの宝庫である。ここに水を加えると、かりに脱水前の水分量に戻ったとしても、旨みが増していたりする。せっかく抜いた水分を補うとは本末転倒のような気もするが、ここがまた料理の面白いところで、「しっかりとした脱水」という大きく振れた振り子は、「加水」というまったく逆の工程に入ると同時に、同じ大きさの反発力をともなって「旨み」へ向かってくれるのである。

 

 水分はしっかり抜く、かたや、水分を必要以上に抜かない。そこにある、調理における前進の仕方の違い。かたや、反発力を生み出す相克を伴って進み、かたや、相半ばするものの調和を確認しながら進む。どちらも、よりうまいものを作りたい、という点において違いがあるはずはない。ならばなんてことはない、単に調理法が違うだけか。いや、文化が違うんだ。要するに、例のごとく、生き方の違いだ。

 

 物事には白黒をつける。そしてその葛藤の中で分かり合おうとする。これを仮にイタリア式だとすれば、日本式は、白と黒の徹底した調和のなかで納得のいく灰色を目指す。というのと同じである。このイタリア式は、あるいは欧米式と言うべきなのかもしれないが、今の社会に、その生活の隅々にまで、少なからず見つけることができる。

 

 一方では欧米式の必要性を痛感しながらも、エセ欧米式とでも言おうか、つまり「分かり合う」という最終目標のない、白黒一辺倒の安易に興じる思い込みにたじろいでいるのは、私だけなのか。日本料理をしているから、ではなく、そもそもの自分の体質が、嫌がる、言うことを聞かない。この何か空寒い感じばかりが残る欧米式モドキの、それが流行なのか、あるいは根付きつつあるのかは知れないが、ともかくそのことが、あらためて本来の欧米式の確認へと向かわせる。

 

 日本料理においても、ずいぶん欧米式が取り入れられてきている。そろそろ本気で、「反発力を伴って進む」ということをわからないといけないのかもしれない。そしてそれは反発力のあるうちでないと、意味がない。

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