2010年12月アーカイブ

玉ねぎ

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玉ねぎを炒めることは、風呂に浸かるのと、どこか似ている。

 

料理人である私は、料理をすることが仕事である。仕事は仕事なんだから、ボーっとしているわけにはいかない。「食材を前にしたらハッキリしていてもらわなくちゃ困る」、というのがなにはともあれ料理人である。

 

ところが私は子供のころから、ことあるごとにウツツを抜かしている少年だった。目の前の、おそらくはそこにこそ自分をつなぎとめておかなくちゃならないという場面であっても、平気で違うことを考えている。授業はおよそ上の空。それでいて休み時間にどう全力を注ぐか、ということを考えていたりする。今でも授業中の風景を思い返せば、窓の外に広がる校庭と、黒板の横の、寸分たがわず秒針を刻む丸時計、くらいしか浮かばない。

 

こういうやつは、まずもって調理場には向かないものだ。「ウツツを抜かしているなんていうのはただ邪魔なだけ」、というのが、「待ったなしで同時多発的に動いてこそ気持ちのいい調理場というもの」だからである。全体の動きを把握して、何をやるべきかを先回りして考えて、取りかかる。それが終われば次、次、次、と、そうやって一日を終えるのが「調理場という仕事場」、なのである。

 

私は20代の初めに、3年かかってその「仕事場」についていく訓練をした。訓練をして、ついていけるようにだけはなって、そこを辞めた。それ以来ずっと、ほぼ一人で調理場を切り盛りする生活が続いている。ついていけるようにだけはなったものの、体質はそう簡単に変わるものではなかった。一人になってしまえば簡単に、「ウツツを抜かす」ようになる。

 

そんな中見つけたのが、「玉ねぎを炒める」という、私なりのやり繰り。どうにも気が乗らないときの言い訳。あるいはウォーミングアップ。玉ねぎを炒めていると、現実がぐっと近づいてくる。

 

「玉ねぎを炒める」にも、いろいろあるだろう。私の言うのは、いわゆる「飴色になるまで炒める」、というあれである。玉ねぎは皮をむいて、みじん切りにする。多少不揃いでもかまわない。フライパンに入れて油を回し、火をつける。火は強め、である。ここから40分間、慣れてくれば30分足らずの間、焦がさないように注意して木杓子で、玉ねぎをフライパンになでつけるように、炒めてゆく。

 

炒めている間は、何も考えない。というよりは、「考えなくていい状態にしてくれる」のが、「玉ねぎを炒めるという行為」なんだと思う。焦がさないことだけを注意して、強めの火で、ひたすら炒めていく。少しすると、余裕が出てくる。「少なくとも30分はかかる」という現在状況が、「その間はこれだけをやっていればいい」という余裕を生むのだろう。その時に、現実が近づいてくる。さまざまなことが頭に浮かび、やるべきことを整理できる。これも、玉ねぎの効用のひとつ、ではないか。

 

私は生活に整理がつきにくくなると、よく風呂に行く。ぬるめのお湯に浸かって、やんわりあったまるまでじっとしていると、それだけでやるべきことが整理できたりすることがある。だから玉ねぎを炒めることは、風呂に浸かるのと、どこか似ている。

 

禅寺の坊主は、朝起きてまず胡麻を擂る、という話を聞いたことがある。胡麻豆腐を作るための仕込みなのだろう。胡坐をかいてその足の間に大きな擂り鉢をあてがって、何十分もかけてじっくりと擂り上げる。こういうのも、同じ効果があるのではないか。朝起きて散歩する、だとか、電車に乗って通勤する、なんて言う時間の中にも、同じような効用を発見できるかもしれない。

 

自分をしばりつけておける単純作業をありがたいと感じるのは、ウツツを抜かしてしまうその体質によるのか。それともこの、なんにつけ自ら整理ができないくらいに複雑にしてしまう性分によるのか。さもなくば複雑に忙しくしていないと身がもたない、この世の中の方に原因があるのか。まあ全部なんだろう。

 

このくらいにしておかないと、また玉ねぎを炒めないといけなくなる。

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