2011年4月アーカイブ

えごま(じゅうねん)

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ご当地グルメはイカシテル、と思っているのはきっと私だけではないのではないか。先日福島県全域から集めたご当地食材8点を、出張マルシェで販売してきました。

 

扱ったものは以下の通り。

みそ豆、

根菜漬、

久留満麩、

えごま(じゅうねん)みそ、

凍み豆腐、

えごま、

南蛮味噌、

そばはっと。

 

これらを選ぶときの基準は、名前がイカシテルか、パッケージがイカシテルか、原材料がイカシテルか、だいたいこの3点です。

 

この3点が基準値を満たしているもの(私の勝手な基準値です)で今までまずかったものはあまりない。万が一これでまずかったとしても、この3点を満たしているということに満足してしまってる私の脳は、まずいという判断を、下しません。

 

いやほんとにそうなんだ。

 

そうやってうまい、まずいを判断することもできるんだと身に沁みてわかってきたのはつい最近ですけれども、文化ってそういうとこから生まれるものなんじゃないかと思っています。そうじゃなかったら、くさやとか鮒寿しなんてありえないと思うもんな。ああいうものがきちんと位置づけられている日本の食文化をイカシテルと思えるか思えないか、つまりそういうことなんじゃないかと思います。

 

そうやって食べ物に向き合うと、今度は食べることが楽しくなりますよ。常に主体的でいられますから。でも逆に、常に検証し続けなければいけませんから、大変といえば大変にもなりますけど。

 

口に入れてハイお終い、は楽なんですね。でも一方で、こいつはどういうプロセスで口の中に入ってきたのかってことに興味を持ちたがるのが人間でもあって、それでいったい今後これとどう付き合ってゆくか、を確かめるようとするから今を生きられている、というのも人間なんだって気がします。文化というのはその結果の、なにやらカタチとして残っていくもの、でしょう。

 

要するに、文化はいりますか?、いりませんか?、ということですかね。

 

それで、話は一気に飛ぶけれど、このごろどうも気になっていることについて。3.11の震災被災地の方の避難先への受け入れについて。

たとえば私の住む群馬県は今(20114月末現在で)県全体で3000人ちょっとの方をいろんな形で受け入れてますけれど、これが、受け入れてハイお終い、が多い。最近南相馬市から避難されている方と交流を持つ機会がありまして、どうしてもそう感じてしまいます。

 

主体的にふるまえる余地を多分に制限されている方々に、アナタたちはここで集団生活をどうぞ、とやる。表向きは自由に、となってますけれど、行政主導で動いてますから役所と役所のやりとりの中での自由、なんですね。

 

今まで役所間のやりとりとは縁遠かったのでよくわかりませんでしたが、役所と役所のやりとりの中での自由、って、ただの不自由、でしかないんですね。

 

きっと現場の担当者はそんなことはないと言うのかもしれませんが、いやいや私は文化がいるのかいらないのかの話をしてるんで。イカシテルかどうかの話なわけで。

 

地震が起きて困っているというから、受け入れた。その受け入れた、は、どういう受け入れた、なのか。そこに受け入れた側の主体性が少しでもあるならば、相手の主体性と向き合うのはこれ当然なんじゃないですかね。それとも受け入れた側に主体性なんてないのか。だったら受け入れちゃいかんがね。

 

主体的にふるまえる余地を多分に制限されている方々の主体性はどこにあるのか、ということなんですね。主体性はあるんですよ。どんなに制限されていようと。それは心の中ですよ。そこに向き合わなくちゃダメでしょが。まったくそういうスキルを、というか発想自体を持ち合わせていないんですね、行政は。

 

それじゃやっぱりダメなんでね、イカシテル人生を送りたい、と思っている人間にとっては。人生を文化そのものと捉えている人間にとっては。

 

受け入れてハイお終い、はぜんぜんイカシテナイのですね。

 

言っときますけどイカシテナイって、生かしてない、ですからね。

 

今回のひとしなはエッセイというより、叫びだな。

 

福島県でよく使われるご当地食材に「じゅうねん」という胡麻に似た食べ物があります。これは荏胡麻のことです。長野や岐阜、群馬でも山間地に行きますと今でもよく食べられています。

 

荏胡麻の面白いのは地域によって呼び名が違うこと。長野だとえぐさ、岐阜だとあぶらえ、群馬ではいぐさ(たたみに使うい草とは別物)と呼んでいるようです。

 

「じゅうねん」という呼び方は、これを食べると十年長生きする、と言い伝えられてきたから。直球勝負というか、なんのひねりもないというか、つまりどこがイカシテルんだって話ですが、少なくとも福島という土地の、その土地に住む人々の素朴さ、あったかさは生かしてるんじゃないですかね。

 

そう思ったら私の脳は、まずいという判断を下さない。

醤油

RIMG1436.JPGなんにつけ、比べてみないとわからない。

 

いま目の前に醤油が20本。この2週間くらいの間、暇さえあればなめている。なめてみて醤油のなんたるかがわかったかと言うと、そうでもない。でもそれなりに、面白いなと思うことはある。

 

たとえば、冷奴にどんな醤油が合うか?ということになると、今まで私は当たり前のように濃口醤油だろうと思っていたが、これが案外、薄口醤油が合う。冷奴は、兵庫の「末廣醤油の本造りうすくち」に止めを刺すようだ。

 

ただこの醤油が合うのは、薄口醤油だから、ということよりも、塩分の引きがいい、ということなのかもしれない。「末廣醤油の本造りうすくち」は、香りがどこか洋酒を思わせるように妖艶で、口に入れてやわらかい旨みが広がった後、すっとその塩分が消える。これが豆腐のような淡白な食べ物に合うのだろう。

 

同じく塩分の引きがいい醤油に、長野の「大久保醸造の本造り甘露醤油」がある。これは再仕込み醤油と言って濃口醤油を再度仕込んだ醤油で、本当に2倍旨いかも、と思わせるような濃厚さがある。それでいて、塩分の引きもいい。旨みの強い豆腐には、この醤油が合うと思う。

 

この引きのよさは醤油をダイレクトに飲んでみればわかるが、元来しょっぱいのが持ち味の醤油のくせに、気づいたら塩気がいなくなっているから、それはもう、ニクイ。盛り上げるだけ盛り上げといて、宴もたけなわになって気づいてみたらもういなかった、みたいな、こんなやつはもうほんとに、ニクイ。

 

いい醤油というのをあえて決めるんだとしたら、この塩分の引きのよさは大事かと思う。

 

今度は、焼いた餅には何か?となると、まったりと旨みの効いた醤油よりも、やや塩気が鋭角で香りの広がる濃口醤油のほうがマッチする。岩手の「佐々長醸造の生醤油蔵造り」などは好相性。

 

これは結局、でんぷんの旨みに合うのはどんな醤油か?ということであるように思う。味噌で考えてみると、同じなんだなって思う。

 

まず、ごはんと、味噌を2種類用意する。一方は甘みのあるまろやかな味噌、もう一方は塩気の効いた味噌。この2種類の味噌を使っておにぎりを握ると、まろやかな方より塩気の効いたほうの味噌が合うことに気づく。

 

でんぷん質には、ちょっと自己主張の強くて、華やかさも取り入れてるやつが合いそうである。

 

そうそう、このなめ比べをしていて、醤油には上がる醤油と下がる醤油があることに気がついた。日本酒にも上がる日本酒と下がる日本酒があるのだけれど、一緒である。上がったり下がったりするのは何かというと、簡単に言えば香り、で、あながち間違いではない。間違いではないが、どこか違う。意識、と言っていいと思うが、あるいは中心線、と言うか。それを口に入れる前と後とでは、その口に入れた人間の意識の中心線が上がるか、上がらないか。

 

説明能力の限界だな。

 

ともあれ、これは、あくまで口に入れる瞬間の最初のインパクトの話。口に入るか入らないかで、ふわっと気持ちを持っていこうとするやつと、すっと着地して居座っちゃうやつと、大雑把に分けて二通りある。

 

主に香りの個性や強弱でもその区別ができるかもしれないが、塩分もそれに大きくかかわる。塩分というのは基本的に引き締めるものだから、上がらない。だから塩分が効いていると下がると感じることが多くなるはず。いやいやそれはきっと逆で、口に入れて意識の中心線が上がらないと感じた醤油には塩分を強く感じる、と言ったほうが正しいかもしれない。

 

これ以上は無理。つまり百聞は一なめに如かず。実際になめてみてくだされ。

 

違いがよくわかるのは、群馬の「有田屋の丸大豆仕込み天然醸造しょうゆ」と、群馬の「岡直三郎商店の日本一しょうゆ一番しぼり」の、群馬なめ比べ。有田屋は上がる。直三郎は下がる。ちなみに今日ここで出てくる醤油は群馬県前橋市の職人醤油ですべてそろう。詳しくはコチラ→http://www.s-shoyu.com/

 

その上でまだまだ続く、上げ下げの話。

 

上がる、下がる、があれば、上がりもせず下がりもせず、という醤油だってある。つまりバランスがとれている、と言っていい。岩手の「八木澤商店の生揚げ醤油」、同じく「丸むらさき丸大豆しょうゆ」しかり、長野の「大久保醸造の本仕込み紫大尽」しかり。

 

これらは口に入るところから胃袋に収まるまでをそつなくこなす。つまり食品として、食べた者から違和感や不快感を引き出さないバランス、を持っている。おそらく醤油をなめてみてうまいと感じるのは、こういう醤油だろうと思う。

 

それで結局、醤油をなめまわして私は何がわかったのかと言うと、醤油をなめて私が感じてるのは、これを作っている人はどういう人か、ということなんだな、ということなんだな。この醤油は大人だねぇ、とか、こいつは繊細だな、とか、ちょっと垢抜けない、とか。案外醤油の味はどうでもいいんだな、うん。なんと言うかいつもどおり、不謹慎な結果である。

 

20本の中に、奈良の「片上醤油の青大豆醤油」というのがある。これは上がる醤油で、ちょっと普通じゃない。何が普通じゃないかと言うと、上がりっぱなしなのである。戻ってこない。ずっと上がっている。たとえてみれば、自分をもてあまして飲み屋に行ってみたはいいが、一向に満足できずに飲みすぎてしまって直地点を見失っている青年、みたいな醤油。

 

この醤油、なんとかしてやらなくちゃいけない。料理人として。

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