2012年2月アーカイブ

風邪をひいて2日寝込んだ。

 

1日目は吐き気と頭痛で終わり。ベッドの上でただ苦痛が過ぎ去るのを待つだけ。こういうのは、いつかきっと過ぎ去る、と思えるから待てるが、永遠に続くのかもしれない、と思ってなお待てるのだろうか。

 

一晩苦しめば、どうにか翌晩はそれより楽になる。今回もそう。楽になって、さて何かをやる気にもならない。こういう時はとりあえず、テレビをつける。

 

テレビをつけたらトキオが、アイドルグループの彼らが、鯛と平目の食べ比べをしていた。自分が食べたのが鯛なのか平目なのかを当てる。アイドルグループと言ってもそう若くはない。散々うまいもの食ってきたんじゃないのかと思いつつ、当たらない。食べた魚の感想、コメントは合っている気がする。おそらく、鯛と平目の違いに興味がないのだろう。

 

この二つ、一言でいえば華やかさが違う。鯛が圧倒的に華やか。口に入れた時の香り、甘み、鯛は平目に比べて、いやおそらく白身魚の中で最も華のある魚かもしれない。ならば平目はダメなのか。そんなはずはない。だいいち華があればいいというものでもない。平目というのは繊細で、かつ、噛んでいると後追いでやってくる力のある味、地べたの味、これが平目の特徴かと思う。華やかさはポン酢で補えばいい。

 

鯛が生きているのは潮の流れの急な所。そういう中で揉まれてアグレッシブに一生を終えるのが鯛である。片や平目は海底でのんびりと、見たことはないがゆったりと、暮らしている。それが味にも出る。どっちがどうだと言われれば、それぞれだ。

 

鯛はそれ自体が華やかだから、食べ時を生で食べるならポン酢よりも醤油が合う。そう思う。今まで食べた中でうまかったのは、京都「瓢亭」の鯛、それから、赤坂「青柳」の鯛。あんなねっとりとした、でありながら品があり甘く、そんな鯛はなかなか食べられない。どちらも瀬戸内の鯛だろうが、素材はもとより、取った後の処理の仕方、つまり締め方、保存状態、包丁の入れ方、そして締めてからどのくらいの時間でお客に提供しているかが、理にかなっているのだろう。

 

動物は、生きたまま食べてもうまくはないのだという。死んで少したって、それでうまみ成分がじわじわ出てきたころがうまい。つまり死んで初めて食材となる、ということである。

 

死んでからある一定の時間がたつと、死後硬直が始まる。硬くなっていく。その死後硬直の間に微生物の酵素が働き、タンパク質が分解され、うまみ成分が出てくる。肉と魚では少し違うらしいがよくは知らない。いずれにせよ種別にみれば一般的に、鶏肉で半日~1日、豚肉で45日、牛肉で2週間くらい、それで鯛や平目はおよそ24時間、つまり丸一日たったころが最もおいしいらしい。

 

動物は、生きたまま食べてもうまくないのである。

 

生きているときはうまくなくて、死ぬと、うまくなるわけである。

 

生命を有機的につないでいくためにはそれが都合いいから、そうなるのか。うまくなれば誰かが食べる。そこからまた生命が始まる。断絶しない。死ぬ→うまくなる→食べてもらう→、というのはだから細胞の中に組み込まれていて、そういうわけで死ぬとうまくなるのだろうか。

 

死ぬ、というのは、自分でどうこうできる範囲を超えるということ。もはやそのとき、自分という基盤は放り出されている状態である。だから死んだあとうまくなったとしても、それは死んだ本人がうまくしているわけではない。もうその時その亡骸はその手から離れている。うまくしてくれるのは、その中に住んでいた微生物(他者)である。これは自己放棄である。いや、死のうと思って死ぬやつは少ないだろうから、消極的自己放棄、ということになるか。

 

つまり、消極的自己放棄の結果、うまくなる、のである。

 

こういうのは、生きている最中にも同じようなことが結構ある。たとえば、便秘で苦しんでいるときにウンコを出したいとする。出したいんだからとにかく詰め込めば後ろから押されて前のやつは出てくるだろうと、普通は考える。ところが食ったって苦しくなるだけで出て来やしない。むしろこういう時は食わないに限る。断食である。断食すると体が危機感を覚える。そうすると細胞がこれはたまらんといって動き出すのである。ここに本人の意思はない。細胞は確かに自分のものかもしれないが、動いてくれよと言ってちっとも動かないのがやつらでもある。要するに、己の意志でどうのというのではなく、それを放棄したときに、案外体はしぶとく蘇生するようにできているのである。

 

要するにこれは、自己放棄の結果、うまくいく、である。

 

しかしなかなかそううまくいくものでもない。早く仕事を終わらせなくちゃ、早くウンコを出さなくちゃ、早く病気を治さなくちゃ、こういう脅迫にも似た切迫感はそこら中にごろごろ転がっている。そんなときに自らを手放すのは難しい。けれども勇気を出してなのか、あるいはあきらめ半分でもかまいやしない、いったん手放してみると、案外体はしぶとくて、また動き始められるようにしてくれたりするのである。

 

ベッドの上で横たわり、まったく動く気のなさそうな自分の細胞に己の希望を丸投げして、じっと待っている。そんな時間は長い。けれどもそうやって待っていると、動いてくる。それが案外、以前よりも活発だったりする。

 

鯛の話はどこへ行ったのか?病み上がりはこんなもんだ。

甘酒

 

東京ビッグサイトというお台場の巨大展示場で行われた「スーパーマーケットトレードショー」に行ってきた。

 

これは言ってみればスーパーマーケットの見本市で、食材や加工品はもちろん、情報、サービスから店舗設備まで、スーパーマーケットに関するあらゆる最先端が一堂に会する展示商談会である。

 

この頃弁当開発の仕事を依頼されることが多かったから、弁当箱や弁当の中身でいいのはないかと行ってきた。

 

これと同じような食品見本市に「ギフトショー」というのがあるが、このスーパーほにゃららが違うのは、スーパーという巨大市場で勝ち残るためのノウハウに関する、今どきならソリューションとでも言うのだろうか、そういうビジネス戦略色が前面に出ているブースが多くあった、ということ。

 

そういうブースは、食品ブースの人たちがはっぴ着てお祭りムードなのに比べて、みんなスーツ。黒づくめで、なにやら鬼気迫る感じ。なんだか緊張しましたね。隙あらばとびかかってきそうで。そんなはずはないんだけど。

 

いまだにスーパーは全国各地で次々にできていて、別に不自由してないんじゃないかってところにも次々。じゃあできた分だけ他がつぶれているかというとそうでもない。で、また作る。こんな状態は長くは続かないだろうなと思いつつも、案外続いている。だからスーパー側としたら必死だよ。一人でも多くお客を獲得せねばと。そうして気づいてみたら商品よりもやれ見せ方だのサービスだの、ソリューションだの、ってなるんだね。そういう分野が新たな経済としてお金を回す役目を果たし始めたってのはわかるけど、やっぱりまず商品なんだよね。

 

お客もお客で、商品が口に入る前に満足しちゃってるところもあるんじゃないだろうか。ああ、お買い得商品を買えた、とか、ポイントがたまってうれしい、とか。うれしいもん、そういうの。きっとその根底には、食品会社やスーパーという巨大なものに飲み込まれていれば安心、という無意識もあるんじゃないだろうか。

 

だいいち、他を知らないもんね。飲み込まれて安心しちゃってるから、知れないんだね。無化学肥料で育てられた旬の野菜のうまさ、とか。スーパーには置いてない地酒や地ビールのうまさ、とか。たまにスーパーを変えてみたりしても、大体同じなんだ。そうすると、どういうことが起こるかというと、同じようなスーパーばかりが増えて食卓には同じようなものが並んで、そりゃあ当然同じような人間が増える。いやほんとですよ。地方色とか郷土色とか、そういうのが大事だってやっている人もいる一方で、画一化や均一化も、巨大資本のバックアップを受けながらこれまで以上の速さで進んでいる気がする。どこか焦りすら感じる、というか。

 

地方の均一化は進んでいる、と言うと、それでも楽しくやれているからまあいいよ、ってつい言ってしまう人もいるだろうけど、それは、とりもなおさずあなたの無個性化が進んでる、ってことなんだよね。人間が個人でありながら社会的生き物である限り無個性化と個性化のベクトルは同時に存在するとしても、こと食べ物に関して、自分の細胞をダイレクトに作るものに関して個性化した部分を保っておかなかったら、後々悩むのは自分なんだ。自分が他者と同じような人間だって気づいちゃってから自分をどうやったら取り戻せるだろうか、とか、そういう悩みそのものが現代、と言ったっていいような状況なんだから。そんな自分がいて、なのにスーパーに通うことには依然として疑いを持たずにいて、みたいな。スーパーの中枢は黒づくめ、という現実を見てしまったら、見てはいけないものを見た気がして、なんだか怖くなりましたね。

 

そんなこと思いつつ、一方で、独自のうまいもの、面白いものを作ることが楽しい、という雰囲気があふれているブースもあって。あまりに広い会場は、行先を決めないと回りきれないほどだったけど、面白いものが目についたら立ち止まる。結果、一向に進まない。あっちに引っかかりこっちに引っかかりして、結局終了時間ギリギリまでいた。

 

8つあるゾーンの中で一番おもしろかったのが、「地方、地域産品ゾーン」。全国津々浦々の名産、珍品、新商品が、ズラリ。さて、片っ端から、食べていく。

 

国産の手作りアンチョビ、くさやチーズ、鯖の塩辛に鯖の魚醤、これ、全部うまかった。地ビールも生で飲めたり。ありがたい。デザート類は目もくれず、考えてみれば、つまみ、珍味ばかり食べている。口直しではないが、しそ茶、とうもろこしのひげ茶。これもうまかった。とにかく、全部じっくりまわろうと思ったらとても一日じゃ無理。

 

数をこなしたいと思ったので試食だけいただいて立ち去るのがほとんど。でも唯一話し込んだのが今回私に招待券を送ってくださった島根の井上醤油店の井上社長。この社長が面白い。

 

社長は醤油の塩分濃度の境界線、つまり何%の塩分濃度以上だとしょっぱく感じるかについて、「私は15%だと思うんですよ」と言う。そうしてできた醤油「井上こはく」はまろやかかつ香ばしく、力強い味わい。しかもこのしょうゆは淡口醤油。ふつう淡口醤油の塩分濃度は17~18%である。

 

淡口醤油は濃口醤油に比べて醤油の香りや味が淡白だから食材の味を引き立たせたいときに使うことが多い。きっとこの醤油なら、吸い物やサラダなど、鰹だしや野菜の持ち味をさらに引き出してくれる気がする。おいしい豆腐、なんかにもよさそうだ。

 

「この淡口醤油の原料に使っているのがこれ」と言って渡されたのが、「みげん」という商品名の甘酒。「しっかり酵素分解してある」と言う甘酒は色が濃く、「黄麹を使っているからだ」と説明された。味見すると、普通の甘酒よりはるかにキレが良く、しかも、酸っぱい。私の好きな甘酒に寺田本家という酒蔵の「マイグルト」という商品があるが、あれの2倍甘くして、3倍酸っぱくした感じ。

 

とにかく熱っぽく、ロジカルに語る社長。話を聞くだけで、ここの商品がまずいはずがないと思えてしまう。あるいはそんな風に思ってしまうのは、買い物に行っただけで満足してしまうスーパーの客と同じか。そんなの嫌だから、これらの商品がどんな料理に合うのか、確かめようと思う。

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