第六回「一二三食堂」

ヒレソースカツ丼.JPG高崎市内に、老舗食堂数あれど、この店ほど店内に若い活気が溢れている老舗食堂はないだろう。
その店の名は、「一二三食堂」、である。
高崎市街地、南銀座通りを城址の方へ一本、と言っても分かりづらい。
住所を記すと、高崎市宮元町に在る。
ともかく、地元の人間の人なら、「南銀座通りから一本、城址側の裏道」、と言ったほうが通じる。

昭和3年から続く老舗食堂で、なんて私があえて説明するまでも無く、
過去、雑誌や新聞に掲載された事がある有名店。
ネット検索すれば、必要な情報には事欠かないだろう。

その佇まいは、裏通りに在る懐古的な一軒食堂。
しかし、その純和風の伝統的な外観から想像し得る客層に反し、若いカップルや
女性の独り客が、ひっきり無しに暖簾をくぐって行く。
店内へ入ると、決して広くは無い。
30席も入れば、満席になってしまうだろう。
年季の染み込んだ木机、骨董品と思しき鏡など、
昭和情緒を感じさせる設えが、小さな店内の雰囲気を演出している。

私は、店内、片隅の席へ座り、先程注文した、ソースカツ丼を待っていた。
待っている間、机の脇に置いてある、「おもいでつづり」なる来店記録帳を手に取り、頁を捲る。
書いてある文章のどれも、この食堂への愛着が行間から滲み出ている。
一寸、驚いたのが、遠方からの来店者が多い事だ。
「今日は千葉県から来ました」
とか
「草津へ行く途中に寄った、茨城県民です」
とか、国道沿いの有名店ではなく、高崎の、それも市街地の路地裏に在る店へ寄
るのだ。

なんだか、私も高崎市民のはしくれとして、「ありがとう」と心の中で礼を述べ
ておく。


そうこうしている内に、ソースカツ丼が私の前へ運ばれて来た。
いささか奮発して、「ヒレ」ソースカツ丼を注文してみた。
丼から立ち上る湯気の向こうには、なんと、丼の上、つまりご飯をステージに見
立て、 ダンスでも踊っているかの如くに、背を伸ばしているカツが3枚。
肉厚なトンカツが、ご飯の上で立っているのだ。
勿論、ソースカツが美味い。
ソースカツ派の一員として、玉子とじ派との全面対決をも辞さない程、美味い。
ソースカツ丼と言えど定食になっていて、一汁三菜が付いてくる。
お徳なのだ。

休日の昼下がり、にも拘らず、入れ替わり立ち代り、入ってくる若い男女の客。
しかも、その大半が、名物のソースカツ丼をワシワシと平らげて帰るので、恐れ
入る。

と同時に、「気付いているんだ」と言う安心感を持った。
チェーン店の即席料理では得られないもの。
それに気付く、いや、それを気付かせてあげる店ってのが、名店なのかも知れな
い。
高崎市の街中に、そういう店が、確かに今も暖簾を揺らして
いる。


筆者 抜井諒一

 

第五回「シネマテーク高崎」

シネマテーク.JPGそれをどう例えたら良いか。
巷の風俗で、私なりに言えば、近代的な「スーパー銭湯」と昔ながらの「銭湯」と言える。
風呂利用者にとって、スーパー銭湯は、成程、理に適った施設である。
館内が広く、綺麗で、サウナなどの温浴設備が充実している。
比べて、路地裏に在る昔ながらの銭湯。
狭く、お世辞にも綺麗と言えない銭湯もあるし、浴室には大抵、浴槽が一つ。
来客数の差を見れば、どちらに世間の風が吹いているかは明白である。

しかし、しかし。
風呂好きな者が好むのは、実は、設備が数段劣る、昔ながらの銭湯だったりする。
好む理由がある。
それは勿論、スーパー銭湯には無い魅力があるから。
昔ながらの銭湯でしか味わえない味があるから、風呂好きな者は好んで行くのである。
挙げれば、入浴料の安さ、室内の古めかしさ、浴室のダイナミックな富士山のペンキ絵、
番台のおばちゃんの人情。
等々、そこでしか感じられない雰囲気を求めて、行くのである。

と、力強く句読点を付けて言い切ったが、まだ本題に入っていないので、急ぐ。
これが、街の映画館にも言える。
そう、長々前置きしてきたが、これが言いたかった。
この「街中レポート」の第2回にも書いたのだが、かつて高崎市街地には、映画館が4館あった。
「東映、東宝、松竹、オリオン」
と言えば、現在30代より年上の上州人は何となく頷けるだろう。
それが現在は一つも残っておらず、映画と言えば、郊外のシネコンで観るのが当たり前。

しかし、しかし。
と、先と同じ調子で芸が無いが、街の映画館の灯は有る。
それを受け継いでいるのが、あら町に在る「シネマテーク高崎」である。
シネマテークでは、地方ではなかなか観られない作品や、郷土の関連ある作品など、
ミニシアターならではの、映画ファン好きする作品を上映している。
まさに、ここでしか観れない映画ばかり。

エンドロールが流れ終わり、館内がぼわっと明るくなる。
その瞬間、観客は銀幕の世界から現実の世界へ戻るのだが、
脳裏には未だ、作品の余韻が、上等な酒を飲んだ時の様に残っている。
映画のそんな余韻に酔いしれたい時、私は、味のある映画館を選択する事にしている。

筆者 抜井諒一

第四回「旧下田邸」

RIMG0114.JPG高崎市も広くなった。
と思う。
2006(平成18)年、平成の大合併の一端で、
新町・箕郷町・群馬町・倉渕村・榛名町が高崎市に編入し、群馬県内では人口が一番多い都市になった。
これによって、長野県と埼玉県とに隣接し、観光などの取り組みにも一層、力が入っている。
2011(平成23)年には中核市への移行も予定されており、
所謂「大都市」への階段を駆け足で登っている感がある。




合併組の町である旧箕郷町は、戦国時代、長野業尚によって築かれた「箕輪城」がある事で知られている。
武田信玄との歴戦を経て、最後の城主となる12万石の井伊直政が、
1598(慶長3)年に、現在の高崎市街地に乾櫓が残っている和田城を改修して移った為、その歴史に幕を閉じた。
現代では、城跡のみが残る公園となっているが、その小高い丘から見下ろす町には、
土蔵や白壁などが散見され、城下町の面影が残っている。
この場所で、毎年10月に「箕輪城まつり」が開催されている。
甲冑を帯びた武者行列や、再現された箕輪城攻防戦が演じられ、
戦国の息吹を脈々と受け継いで行く。

その歴史の糸を紡ぐ様に、この地で代々、主は変われど歴史の舞台を見つめて来た屋敷が保存されている。
高崎市箕郷支所に併設されている、「旧下田邸」がそれである。
この旧下田低は、箕輪城落城後、城主長野氏の重臣であった下田大膳正勝の子孫が、
土地の代官として住んでいた屋敷跡。
邸内には、群馬県重要指定文化財指定の、江戸時代の書院と回遊式庭園が現存している。
数多の文人墨客たちが、「青翆園」の呼び名で親しんできたこの風流な庭園は、
「忠臣蔵」で名高い堀部安兵衛が築造したと伝えらてきた。
群馬県と忠臣蔵と、歴史の糸は思わぬところで繋がるものだ。

なるほど、一歩足を踏み入れると、空気感が違う。
池、木、石など、その配置によって生みだされる庭の景色は、芸術の域まで昇華されている。
屋敷内の随所に、数寄屋風の意匠が施されている。
ブドウとリスを透かし彫りで表現した欄間など、江戸文化の気品を感じる。
縁側に腰掛け、紅葉が鮮やかな庭園を眺めていると、鳥のさえずりが心を別天地へと誘う。


筆者 抜井諒一

第三回「鼻高展望花の丘」

R0015174.JPG


親父が車を買った。
と言っても、今を遡る事、20年前の話である。
まだ、時代が平成になったばかりの頃、我が家に、新車が納車される日が来た。
学校から帰って来た私は、我が家の駐車場にピカピカの新車を見つけ、仰天した。
洒落た言葉で言えば、「サプライズ」だった。
当時、自営業者で、時間の融通が利いた親父は、
直ぐに私を乗せて、夕暮れ時の街へとドライブに出た。

今度の新車は、それまでの家にあった錆びついオンボロ車と違って、力強く、猛々しく、夕暮れ色が溶けだした高速道路を、風を裂きながら疾駆した。
私の中で、なんとも誇らしく、甘美なドライブの思い出として残っている。
当時、その新車を眺める度に、早く大人になって、自分の車を運転してみたいと、何度も夢見た。
しかし、高校に進学する頃には、運転への情熱はすっかり冷めてしまった。
皆が教習所に通い出す卒業時には、周囲の運転願望に相反して、私の願望は、すっかり無くなっていた。
大学に進学し、鉄道網が整備された首都圏に住む様になると、
自動車はどこか自分とは縁の薄い乗り物、社会的な拘束感を余儀なくされる乗り物として、遠くに見ていた。
出来れば、社会に出てからも「運転しないで済めば」、などと考えるまでになっていた。
何がきっかけで、そうなってしまったのか。
兎も角、そうなってしまった。

ところが、地方社会へ帰郷する身としては、生活上やはり運転免許が必要で、
慌てて学生生活も後半に差し掛かってから、運転免許を取得した。
その後、就職し、初めて自分の、子供時分にあれ程焦がれた、マイカーを持った。
ささやかな夢を実現した事になり、確かに嬉しかったが、感慨は思ったよりも浅かった。
しかし、やはり車を持っていて良かったと、思う瞬間が有るものだ。
それは、景色の良い場所をドライブしている時。

信号、道路標識、渋滞の車線、入り組んだ狭道。
日常の喧騒が纏わり着く、煩わしい街中を抜け、信号も道路標識もない、
山の麓の一本道を走ってる時は、爽快である。
絡まった糸が解ける様に、気持が軽くなり、心地よい。

高崎市でそれを味わうなら、「鼻高展望花の丘」が絶好である。
市街地からは2.30分も走れば着く。
最盛期は9.10月の「コスモス祭」が開催されている時期。
その名の通り、上毛三山を眺望する丘に、約40万本のコスモスたちが咲き競う。
遮蔽物が一切ない丘の上に立つと、空が近く感じ、吹き行く風もなんだか人懐っこく感じる。

暇ができた秋の休日。
車を洗ってから、鼻高展望花の丘へ、ふらりとドライブへ出掛けた。
丘の上には、心地良い秋風と満開のコスモス。
車を停め、壮大な景観に見入った。
振り返ると、駐車場にポツンとあるマイカーを、夕日が染み込むように照らしていた。
俄かに、車も悪くないと思った。
最近めっきり老けこんだ親父を、今度、連れて来てやろうと思った。


筆者 抜井諒一

第二回「中央銀座商店街」

今は昔。中央銀座.JPG
中央銀座通り商店街と言えば、高崎市民が、真っ先に連想するのは映画館であった。
「東映、東宝、松竹、オリオン」
と言えば、高崎市における映画館四天王。
小学生時分の夏休みには良く通ったものだ。
アニメや特撮、邦画に洋画。
4館とも当時から、かなり老朽化しており、その佇まいはもはやアヤシイを通り越して、アヤウイ雰囲気を醸し出していた。
それでも夏休み時期などは、連日立ち見が出る程の盛況ぶり。

 すし詰めで冷房が効かなくなった、蒸し風呂状態の館内。
スクリーンの前をドタバタ走り回る子供。頻繁に開く扉の光。館内に立ちこめる、どこか黴臭く、淀んだ空気。
 そんな劣悪な環境だったが、席に着いてから、「映画の中」へ行くのには左程、影響は無かった。
むしろ、その様な「空間の妙」の効果によって、緩やかに銀幕世界へ吸い込まれて行く様だった。

 映画を観終わると、まだ外に「ゴジラ」のしっぽ位見えるのではないかと、興奮気味に映画館の外の中央銀座のアーケード商店街に飛び出す。
するとそこには、人気も疎らなシャッターが閉まった往来と、宵闇が染み込んだ、商店街があった。
 ヌメッと怪しく灯る赤提灯や、横路の暗がりに立っている、全体的にキワどい感じのお姉さんが、商店街を「夜の顔」に化粧させていた。

 それは、映画の世界から大人の世界への回遊。
あの頃の映画入場券はまさに、色んな世界への回遊乗車券だった。
しかし時は経ち、2003年まで持ち堪えたオリオン座閉館をもって、この高崎映画館四天王は全滅。
 その幾つかは取り壊され、跡形も無くなっている。
同時に、商店街の「味」も無くなった。
その最大の要因として、郊外に次々造られる大規模な複合映画館である、シネマコンプレックスの新設ラッシュが挙げられる。

 ここで、なぜか本日はキーボードを打つ手もラッシュしている様で、いつの間にか要点を掴めていない、ダラダラ型の長文になってしまった。
 そろそろ我が思考体力もスタミナ切れ、文章展開もクリンチ気味になってきたので、畳み掛ける。

 とどのつまり、路地裏横丁を排除した「都市計画」やら、「まちづくり」は、味気ない。
子供時分から、この商店街の盛衰を傍観してきて、そう感じる。
この味気なさが、街中に息づく味を、構造的に破壊して行く。
B級なモノを淘汰する文化が生む、敗者復活の出来ない社会。
それは、あの頃の映画が示唆していた社会ではあるまいか。

 この商店街を歩くと、今でも、ポケットの中に回遊乗車券が入っていないか、ふと、気になる。
取り壊されて、跡かたも無い映画館の前に立ち、ポケットにそっと手を入れてみる。

 

筆者 抜井諒一

第一回「高崎駅」

高崎駅1.JPGのサムネール画像  話は唐突に始まって、1997年10月1日。 
これは高崎駅に長野新幹線が開通した日である。
長野のオリンピックを翌年に控えた、群馬と長野間を結ぶ新幹線の開通は、嬉しかった。
その反面、横川と軽井沢間を結ぶ信越線が廃線になる経由もあり、新幹線に乗る金銭を持たない学生の我々は、手放しでは喜べなかった。

 その時分、私は中学三年生。授業が終わってから、新しい新幹線を拝むべく、わざわざ高崎駅まで行った思い出がある。
 友人三人と一緒に四人で、それぞれ部活動の練習を抜け出し、旧群馬町から遥々、自転車を駆って見物に行った。
 当時の高崎駅は、2009年現在と、その外観は左程変わらないが、駅周辺そして、駅構内は随分と様変わりした。
 まず、駅東口には、現在の様なぺディストリアンデッキは無く、ヤマダ電機本社も無かった。
東口駅前ロータリー横の、その場所には、テニスコートと駐車場があった。
駅西口には、現在同様ぺディストリアンデッキがあり、「商都高崎」を思わせる、高層ビルや、ビブレ、高島屋などのデパートは当時からあった。
 その周辺、ビル群のテナントや、小商いの商店などで、当時から残っている店は少ない。店を閉めたか、そうでない場合は、郊外の方に移って行く傾向がある。
 駅前広場も、緑化整備されおらず、乗り降りの車が、何時も折り重なって止まっていた。

 そして、目を見張る変貌を遂げたのが、駅構内である。たった12、3年程前の事だが、腕組みして回想しても、容易に、構内の前景を思い出せない。記憶の風化が、街並の変貌の大きさを物語っている。おぼろげな記憶を辿れば、自動改札はあったものの、現在よりも数は少なかったように思う。 
 現在改札横に在る切符売り場も、当時は離れた位置に在り、現在の様に、改札口の其処彼処に、駅員は立って居なかった。
 改札前に駅弁の販売所が一だけ有り、観光物産館も規模小さく、今の様な新幹線発着の大型駅と言うよりは、小都市の乗り換え駅と言った様相だった。
 構内の商店も、コージーコーナーやスターバックスコーヒー、ミスタードーナツ、マツモトキヨシなど、都会風の店は無く、駅ビルモントレーが隆盛していた。 
 立ち食い蕎麦屋、キオスクは当時から変わらずに在る。

 その変貌度合も、先に述べた長野新幹線の開通で速度が出た。
長野新幹線の開通を契機に、と言った印象さえある。 
駅の乗客数はこの12、3年で右肩上がりに増えているが、駅前から街中の人出は、随分と減った様に感じる。 
 休日など、駅前を歩く雑踏の中に、両手にデパートの袋をぶら下げた家族を、簡単に見付けられた。現在は、手ぶらで颯爽と歩く若者等が、ことに多い。

 中学三年生の私等は、駅へ着くと、すぐ入場券を買って、新幹線ホームへ駆け込んだ。
友人の一人はサッカー部に籍を置いており、練習に出ると見せかけて、部活動を抜け出して来た為、黄色いゼッケンを付けた儘だった。
胸と背中に、黒ヌキの文字で大きく、「9」と入っている。 
 やがて、授業中に調べた時間通りに、夕陽の中、光を裂いてホームに滑り込む様に入線して来た。白いボディに青いラインが映える流線形の車体。
新幹線「あさま」登場である。 
鉄道趣味の人たちが、数名、群れるとも離れるとも無しに切る、一眼レフのシャッター音が聞こえる。
 新幹線あさまがホームに停車し、嬉々とした表情で束の間の車内見学を楽しむ、私等と一眼レフの方々。
 大きな溜息如き排気音と共に扉が閉まり、また、黄昏の街へと走り去って行く。 
ガランとしたホームを、後にする私等。 
その瞬間、私は気付いて声を掛ける。
「おっ、靴、新しいじゃん」
ゼッケン君が答える。
「この靴、今日の為に下ろしたんだ、長野新幹線開通記念シューズだぜ」
私は、歩きながら、しばし絶句した。

 

 

筆者 抜井諒一

只今レポート中!

近日中に公開いたしますので、しばらくお待ち下さい、

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